エスケープ
朝起きると、リビングの壁に数個の中身の入った白いビニール袋がつるしてあった。白い壁に画鋲で止めてある。タバコに火をつけ、中身を確認する。
一つひとつは中身が少ないらしいが、これだけあると驚かされる。またか! 心のなかで叫ぶ。一つ目は半分中身のないボックスティッシュ。二つ目はエアコンのリモコン。三つ目はボールペン二本。四つ目は私のかかとの角質落とし。五つ目は何やら使用目的すらわからなくなった円形の平らな板。
こんなことをする人は一人しかいない。というより、この家は私ともう一人、ママちゃんと呼ばれる母が住んでいる二人世帯だ。私がやっていないのだからやった人はわかっている。毎度のことながら、理解不能な行動をとる。本当に不思議な人だ。
ちなみにママちゃんとは私の学生時代の友人がつけたあだ名だ。私にかかってきた電話で私の友人と三十分近く話したり、訪ねてきた友人にうどんをふるまったりと、昔から人好きのする人だった。
ママちゃんの不思議さには理由がある。ママちゃんは高次脳機能障害という障害を持っている。簡単に言うと認知障害だ。
六十歳の時にくも膜下出血を患い、後遺症として認知障害が残った。高次脳機能障害の現れ方は個人差があり、感情の起伏が激しくなったり、物覚えが悪くなったり、何かに固執するようになったりとあるようだが、ママちゃんはいたって穏やかに、記憶障害が出た。
特に時間と曜日は全く駄目だ。デイサービスの日もわからなくなり、日曜日に家の前で待ち続け、警察に通報されたこともある。近所の人が家の前に立っている人がいると通報したらしい。仕事場に警察から電話がかかってきて、すぐに帰ると真っ赤な顔をして怒っているママちゃんを四人の警官が取り囲んでいた。
記憶障害があり、今日、曜日を間違えてデイサービスを待ってしまっただけなのだと伝えると警官は納得して帰っていった。ママちゃんは、
「お母さん悪くないもん。警察が悪いんだもん」
と、泣きそうな顔をしてそのあとも怒っていたことを思い出す。ママちゃんがここまで怒ったのは病気後たった一回この時しか見ていない。
ママちゃんの話では、
「奥さん、警察ですけど、どうしたの?」
と、声をかけてきた警官に、キレたらしい。
「何ですか、私が何か悪いことをしたんですか?」
「何しに来たんですか、私を捕まえに来たんですか?」
「警察、警察って言わないでください。恥ずかしい」
などなど、そうとう戦ったらしい。いつの間にか警官が二人から四人になっていた、と付け加えた。泣きそうになりながら怒るママちゃんを今でも覚えている。なぜかその時は本当に怒っていた。通報した近所の人にも怒っていたが、冬の朝、多分長時間外にいた老人を放っておけなかったのだろう。結果的には助けられたと思う。職場に戻り簡単に説明すると、職場の人は笑いながら、
「ちょっとした大ごとでしたね」
とか、
「老女一人に警察四人って、そりゃ警察が悪いわよ」
と、同情してくれた。ママちゃんが怒ったのは後にも先にもその一回だけだ。