エスケープ

シフト制の仕事で夜勤もあり、朝四時に起きることもあれば、夜十一時に帰ることもある夜勤で夜を一人きりで越させることもたびたびあった。ママちゃんは私の不規則な生活習慣に落ち着かず、夜中に私を起こすことがよくあった。夜中の二時に、

「ご飯できたよ」

とベッドまで持って来ることもあれば、明け方三時半にキッチンで卵を焼いていたこともあった。焦げ臭いにおいがして飛び起きてキッチンに行ってみたら、ママちゃんがフライパンを握っていた。ご丁寧に割烹着を着て。朝四時に起きなくてはいけない日に夜中の二時や三時に起こされるのは今考えても結構辛かったし、ママちゃんに対して怒鳴ったことも一度や二度ではない。

私は疲れていたし、いつもいらだっていた。今思えばママちゃんなりの愛情表現だったのかもしれない。ママちゃんは寂しかったのだろう。私が帰って来るまで夜遅くまで起きて待っていたし、私が早く出る日は一緒に起きていた。私より寝ていなかったのではないだろうか。そしてママちゃんは週五日、月曜日から金曜日までデイサービスに通う。

私の朝早い日は一人でご飯を食べて出かけ、帰りが遅い日は一人で宅配のお弁当を食べることになっていた。なっていたというのは、大体おいしくないと言って自分で何かしら作って食べていたからだ。それもあまりおいしくない料理を。はっきり言ってママちゃんの料理はおいしくない。

以前、作り立ての味噌汁があまりにもひどい味で、何を入れたのかと尋ねたところ、うれしそうに「お酢」と答えた。私がいるときは料理をしないでくれとお願いしたが、なかなか守ってもらえない。料理をしてほしくないのは、火を出すことも心配だったが、材料も無駄になるからだ。

そもそも元気だったころ、ママちゃんは料理が上手だっただろうか? 思い出せない。私は大学を卒業するとすぐに家を出てしまったため学生時代までしか家でご飯を食べていないのだが、そのころどう思って食べていたか覚えていない。それでもママちゃんの料理を食べて育ったのだから、それなりにはできていたのだろう。ただ、掃除は苦手な人だった。それを私も受け継いでいる。

電車は埼玉を抜けた。外の光が明るく差し込んでいた。上野に着くとたくさんの人がホームに降りた。服装は様々で、通勤通学の人もいただろうが、旅行者や和服を着た人もいる。上野までは何とか違和感のない世界だ。しかし上野を過ぎ東京になると国境を越えたように景色が変わる。まぶしかった空や太陽を遮るようにビル群が現れる。

埼玉の住宅地から来た私にとっては近未来的な光景だ。いや、時代錯誤なのは私であって、これが現代なのだ。ここで数えきれない人々が働いている。在宅ワークが増えたといわれているとはいえ、毎日ここに通う人も多いだろう。東京、新橋、品川を越すと、再び太陽が顔を出す。民家の連なりが戻ってくる。そして海が近づいてくる。