月子は「かぎろひ」の窓から見るこの時間の空が好きだ。世界は私たちが知らない小さな偶然の重なり合いでできている。あの日あの瞬間がなければ、今、こうして白鳥さんとビールジョッキを合わせているはずないのだから。

派手に転んだ日から数日後、ポスティングを代わりにしてもらったお礼に白鳥さんの家を訪れることにした。二百五十部ほど残っていたから男の人の足だと一時間ちょっとで配れただろう。お礼をどうしよう。部屋を見渡すと、「黒糖焼酎」と書かれた箱が目に入った。冬のいちご農園のアルバイトで親しくなった友人が奄美大島の旅行のお土産にくれたお酒だ。

月子は焼酎が苦手だ。それなのに友人は忘年会でビールや日本酒を飲んでいた月子を見て「いけるくち」というカテゴリーに入れて、お酒ならなんでも飲めると勘違いしている。世の中焼酎ブームだからか、飲める人イコール焼酎好きにされてしまっては困る。奄美大島の空の青とも海の青とも思えるようなブルーのグラデーションのパッケージにうっすらと被った埃を撫でた。

夕方、青葉台まで自転車を走らせた。ガレージに車があったので呼び鈴を鳴らすと、白鳥さんがすぐ出てきた。

「意外と楽しかったですよ。近所を散策することもなかったから、いい気分転換になりました。あ、失礼、仕事としてするのは苦労もあるからね。この間みたいな災難も」

月子は、何度も頭を下げながら、お下がりであることの後ろめたさを隠しつつ、持って来た焼酎を差し出した。

「おお、奄美大島の焼酎かあ、これ、クラシック音楽を聴かせて熟成させた焼酎でしょ。一度飲んでみたかったんだよなあ。もらっておこうかな」

遠慮のない人なんだ。それが月子の心を軽くさせた。陽に焼けた肌ツヤに、潤んだ黒目が輝いて、その目尻から魚の尾びれのような無数の襞が放射に広がっている。夕方のオレンジの光を受けた横顔を見ながら、スーパーで買ってきた桃も差し出した。

「あの、もしお酒飲まれなかったらと思って、これもよかったら召し上がってください」

「えーっと、僕、果物食べる習慣ないんだよね」

「残念です。旬の桃ですよ。めちゃめちゃ美味しいのに」

果物好きの月子は押しまくったが、

「じゃあ、その桃は僕からのお返しということで」

「あれ、それ、合ってます?」

白鳥さんのゴマザララシの目がさらにまん丸になって、それからクシュっと三日月になって、目尻のシワがまだ尾びれのように広がった。月子はおかしくて、プハッと吹き出してしまった。

「ああ、そうだ。このあたり、いや駅前あたりで美味しい店知らない? お酒が飲める店」

「和食ですか? 洋食ですか?」

「そういう小洒落た店じゃなくて、ちょっといい感じの居酒屋とか」

とっさに思いついたのが、「かぎろひ」だった。

どういう話の展開か、二人で「かぎろひ」で飲む約束をして、白鳥さんの家をあとにした。桃は自分で食べた。生まれて初めて自分で買って食べる高級桃は、最高においしくて、濃厚な佳味(かみ)を心ゆくまで味わった。