【前回の記事を読む】居酒屋での定例会。待ち合わせの男との出会いはまるで「少女マンガ」?
鶸色のすみか
動転したまま、気がつけば白鳥さんの家の玄関のたたきに座っていた。白鳥さんは、手首の擦りむいたところを消毒して大きめのバンドエイドを貼ってくれた。家の中はしんとしていた。
月子はようやく冷静になったが、見知らぬ人に失態を見られて恥ずかしくてまともに顔を見ることができない。五十前後か、老けて見えるならもう少し若くて月子と同じくらいか。顔の顎に少し伸びたヒゲの剃り跡。乾いた砂の匂いがした。
「すみません。手当までしてもらって。てっきり空き家だと思って。前だけ見て歩いていました」
「いやいや、謝ることないですよ。それにしても勢い良かったなあ」
白鳥さんがふふっと笑うと、擦りむいたところがしくっと痛んだ。どこからか空気が流れてきて、湿った畳の匂いがした。
「怪我をさせてしまって申し訳ない。でも車庫から車を出すときじゃなくて良かった」
そういえばいつもは空っぽの車庫にグレーの車があったような。
「すみません」
月子はまた謝った。
「これ、配るの?」
「いえ、明日にします」
「この町内だよね。このくらいならあとで僕が配っておきますよ。昼から暇だし。まだしばらく痛むだろうし。怪我させたお詫びです」
おっとりと鷹揚に喋るので思わず同意してしまいそうになる。
「滅相もない。大丈夫です」
月子は断固として断ったが、わざわざ明日来ることもない、と半ば論されたようになって月子は折れた。家に帰って、ジーパンを脱いで打撲を確かめると太ももの後ろが赤く腫れていた。あの人、ちゃんと配布してくれただろうか。配布し終わったら電話で報告しましょうかといってくれたが、電話番号を知られるのもどうかと思い、大丈夫ですと断った。
月子はその日、何度大丈夫ですと言ったことだろう。あの時、いきなり門から出てきたゴマアザラシの目をした人が白鳥さんだったのだ。
「ちょっと失礼」
白鳥さんがトイレに立った。店を見渡すと、いつのまにか満席状態になっていた。窓の外を見ると、ビルの上のわずかな面積の空は、すみれ色を濃くしたような紺藍色になっていた。