【前回の記事を読む】壬申の乱で政権基盤が脆弱な頃…天武天皇の親政で行われた大方針とは?

第一章 神々は伊勢を目指す

4.麻続王の流刑地

伊良湖に流された麻続王の歌が、『万葉集』では次のように掲載されている。

  ()続王(みのおほきみ)伊勢(いせ)(のくに)()()()の島に流さるる時に、人の哀傷(あはれ)びて作る歌

23 (うち)()を 麻続王 海人(あま)なれや 伊良虞の島の (たま)()刈ります

(うち)()を)麻続王は 海人(あま)なのか 伊良虞の島の (たま)()を刈っていらっしゃる

  ()続王(みのおほきみ)、これを聞き感傷(かなし)びて(こた)ふる歌

24 うつせみの (いのち)()しみ 波に()れ ()()()の島の 玉藻刈り()む(『万葉集』)

伊勢や伊良湖の人たちは、潮騒に霞む王の姿を見て、常ならば刈った玉藻を神前にお供えするものを、いまはご自身の食用になさっていることよ、と深い哀傷(あわれみ)を感じた。

また、「空蝉の命」と自らを断じた麻続王。伊良湖に寄せ来る太平洋の荒波と風の音を聞いたことがある者なら誰しも、その悲しみと諦めが直に伝わってくるのである。

しかしなぜ、因幡に流された麻続王の歌が、伊良湖に関連する哀傷歌として、万葉集に採録されたのか。おそらく長年にわたり王の所有であった伊良湖に住む人たちにとって、麻続王は親しい王族であり、尊敬の対象にもなっていたであろう。その地元民から「刈っていらっしゃる」と詠われたことを知り、流刑地の因幡に在って「これを聞き感傷(かなし)びて(こた)」えたものと思われる。それ以後の王の身の上について、万葉集は何も語らない。

万葉撰者に擬せられる大伴家持は、実質的な左遷人事として、因幡国に赴任したことがあった。その42歳当時の正月の歌が、万葉集掉尾を飾っている。同じ因幡で不遇を(かこ)つ身であった麻続王のことは、家持にとっても他人事とは思われなかったに違いない。

海人族であった安曇族は、その発音上の特徴が「麻績」に繋がっている。「麻」の古語は、「WO」である。

→(W)OTUMI→HOTUMI→HODUMI(穂積)

WO(麻)TUMI(積)→WOTUMI→(W)ATUMI→ATUMI(渥美)

→ATAMI(熱海)→ADUMI(安曇)

→WO(TU)MI→WOMI(麻績・麻続)

麻続王を罰した天武天皇(大海人皇子)も、海人の出身と考えられる。

OHO―AMA(大海人(おほあま))→OHO(多氏)―SI(の)―AMA→多氏の海人・海女

海人→安曇族→麻積(続)王→伊勢や伊良湖などの土地・部曲を私有海人→大海人皇子(天武天皇)→諸王

の所有地を公有・部曲の否定「同じ海人の出身ではないか、なぜ土地を取り上げるのだ」という思いが、麻続王の側になかったか。王の位階は三位であった。天武天皇と血の繋がった王族であったから、チョットした軽い無駄口を叩けた間柄であったかもしれない。それが海人族に縁続きの大海人皇子(天武)には、逆鱗に触れる部分があった。しかし想像上の出来事でしかない。