5.古風土記の逸文

麻績と宇治

猿田彦神や麻続王のことを調査しているが、今度は伊勢国風土記の逸文を調べてみる。「麻績」という地名は、伊勢にも在った。『倭姫命世記』には、次の内容が記載されている。

アマテラスの遷座地を求めていた倭姫命は、美濃から巡って来て、現在の松阪市、「飯野(いひぬの)高丘宮(たかをかのみや)に入り坐し」た。ここに「機屋を作りて、大神の御服(みけし)を織らしめ」た。その「大宮(おほみやの)(かむ)(あら)(たへの)衣服(みそ)」を織る「(かむ)麻績(をみ)の氏人等」が住むところが、「麻績(をみ)(のさと)」であった。

また「宇治」については、次のように述べている。

風土記に云く。宇治の郷は、伊勢國、度會の郡、宇治の村、五十鈴の川上に、宮社(みや)を造りて、大神を(いつ)きまつりき。これに因りて、宇治の郷を以て、内の郷と為せり。今宇治の二字を以て、郷の名と為す云々。神名秘書(『古風土記逸文』「伊勢・宇治郡」)

「宇治」は「内」(UJI→UTI)であった、と伝える内容である。UTIの意味は、矢張り「ユダヤ」である。従って宇治の郷はユダヤの郷となるが、如何なものであろうか。「大神」を祭ったので「内の郷」とした、というからには「大神」=「内(UTI/ユダヤ)」となる理屈である。内宮の内玉垣に内接して、「虎塚古墳型神影」や「ダビデの星」が存在しているので、「大神」の解釈は、この理屈のままで良いと思われる。

現在は倒壊リスクを避けるため取り壊されてしまったが、外宮と内宮を結ぶ街道の両脇歩道にあった膨大な数の灯籠に、カゴメ紋が彫られていたのには頷ける部分がある。

「伊勢」の地名は、「伊賀」とも関連して、次のように説明される。

伊勢國風土記に云く。伊賀の(あな)志社(しのやしろ)に坐す神、出雲の神の子、出雲(いずも)建子(のたけこ)(のみこと)、又の名は、伊勢津彦の命、又の名は(あめの)(くし)(たまの)(みこと)、この神、昔、石もて城を造りて、ここに坐しき。ここに阿倍志彦(あべしひこの)(かみ)來集ひにしかど、勝たずして、還り却ぞきき。因れ以て名と為せり。云々。日本書紀私見聞(『古風土記逸文』「伊勢・石城」)

伊勢の国名の基になったのは「出雲の神の子」=「出雲建子命」(「又の名は伊勢津彦の命」=「又の名は天櫛玉命」)、この「伊勢津彦」が国名の由来であったと解説されている。また石の城に拠った伊勢津彦を攻撃したのは阿倍志彦であったが、勝利することなく退いたとある。この記事には、重要事項がたくさん載っている。