未来の船
五月の夜明けの空気は肌に冷たく、キーを回すとエンジンの音も鋭く感じられた。車を発車させた。孝介のハンドルさばきは確実だった。無駄な動きがない。ハンドルに手を乗せて静かだった。
「一緒のところを見られたら間が悪いだろう。俺を送り出して平気だったとか言われて。勝手に出ていったことにしたかったんだ」
「そんなことに気を遣う人が、本家の田植えを手伝わないで平気なんて、不思議」
「義理や筋より由布子がかわいい」
「そんな風に考えたらここではやっていけないのは、あなたの方が分かってるのに」
駅前のロータリーの隅に車を止めた。
「東京に来ないか。由布子と一緒に東京に来て、三人で暮らさないか」
突然の孝介の言葉に、美智子は思考停止の状態になった。なぜ、今、ここで……すぐに降りようとはせず、おもむろに美智子の顔を見て言った。
「本気なんだ。いろいろ考えたんだ。美智子も考えておいてくれ」
電話をするからと言って、足早に駅舎に消えた。美智子はハンドルを回して少し発進させ、上りホームが見える位置に止めた。跨線橋を歩く孝介が見えた。うつむいた横顔には高校生から二十歳を過ぎたころの孝介の面影が十分に残っていた。生真面目で一本気な、美智子の好きな孝介。
また孝介と暮らす。知らない都会でも一緒に暮らせる。こんなところで言い出すなんて、孝介も考えあぐねていたのかもしれないけれど……もっと真正面から話したかったのに。美智子は取り返しのつかない思いでハンドルを握り締めていた。休暇を終えて孝介が出勤すると事務所に社長が居た。
「どうだった、承知したか?」
孝介はニヤリと笑いながら両腕でバツを作った。
「なに! ダメだったのか」
孝介は顔を緩めたまま何も言わなかった。
「尻に敷かれてるんだなぁ……」
周囲に人もあったせいか、社長は呆れたように言って、奥へ引っ込んでしまった。
孝介はまず引っ越すことから始めた。今までの一間のアパートから、二間に風呂とキッチンがついたくらいのマンションを探した。
孝介は珍しく何回も美智子と電話で話した。試しに出てきて、性に合わなかったら戻ってもいいから、何だったら期限つきでもいいなどと、孝介らしい几帳面さが美智子の気持ちを緩ませていったようだ。稲刈りに戻った孝介とさらに話し合い、兄にも勧められてようやく美智子の気持ちが動いていった。