第2章 仏教的死生観(1)― 浄土教的死生観
ほかに、どういう境遇だったかはわからないが、俳諧をたしなんだ女性二人の浄土への往生を願う辞世句が天保3・一八三二年の『女百人一句前編』にある(「仙台・江戸学叢書7」竹内英典『松窓乙二門の女流俳人』平成23年所収)。「末期に」として、「黄色なは仏と思(おぼ)せ女郎花(おみなへし)善甫女」「江戸にて辞世」として、「ここは穢土今ぞ浄土へゆき仏陳甫女」ただ、厭離穢土を願望する人間は、中世とは異なって、現世における幸福追求に目覚めた平和な江戸時代の都市部の人々の中にあっては、少数派だったかもしれない(第10章「諧謔的死生観」参照)。
次に、これは大正9・一九二〇年3月の「尼港事件」における一老婆の阿弥陀信仰の話。シベリアのニコライエフスク(尼港)で新革命国家ソビエトのパルチザンの手で、領事をはじめ日本人七百余名がだしぬけに牢獄にぶちこまれ、2カ月半ほどして理由も告げられず惨殺されたことがあった。
この七百余名の中にはたくさんの女・子供もいたが、その中に一人の老婆がいた。彼女は時々「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と唱えていたが、他の人々と違って、嘆くこともなく、平然として病人や子どもの世話をしたり、悲しんでいる女の人たちを慰めたりしていた。
これにはパルチザンも驚き、獄長と牧師が銃殺前に彼女を呼んで「どういう信仰を持っているか」と尋ねたという。「老婆は『仏さまの大きな慈悲に抱かれているという信仰です。私たちには何の恐れも、心配もありません。私たちの心はいつも平和で明るいのです』と言って、平然として銃口の前に立ったというのです」(佐藤幸治『死と生の記録』講談社現代新書昭和43年)。
最後に、本多ちかという女性の臨終の様子を、その娘が語っている。彼女は、自宅で多くの肉親たちに囲まれた中、姑に先立つことでお世話ができないことをわび、夫に子供たちのことを頼み、最後に「『ああ御来迎がございました。行き場に決して迷いませんから安心して下さい』と皆の固唾(かたず)を呑む中を、静かに逝った(中略)。
それは説教で聞く、釈迦の亡骸を囲んで虫獣に至るまで号泣しているあの涅槃入寂の時そのままの有様だった」と娘の本多はなは生涯繰り返し語ったという。この話は大正時代のことのようだが、阿弥陀仏の来迎を確信して死んだという平安時代以来の「往生伝」さながらである。
なお「往生伝」は、平安時代後半に多く書かれたが、江戸時代以降明治時代までの伝統がある。往生伝とは「もう一度、人は命を新しくして安楽な地に生れ直すこと(=往生)ができる。こう信じて日々の行いを律し、心を鍛えて没後にいまより幸せな状態に生れ直そうと真剣に願った人たち」を主人公として編まれた一種の死生観の書であるが(寺林峻『往生の書』NHKBOOKS二〇〇五年)、浄土真宗系では『妙好人伝』という、これも阿弥陀信仰に純粋に生きた人々の記録が編まれた。これについては第4節で取り上げる。
※補註……その理由については、跡継ぎの子ができたら家を出るという約束のもとに結婚したとか、儒者の晩翠に仏教信仰を嫌われたとかがあるが、森銑三は「家庭の主婦向き」でなかった了念尼の性格を挙げている。