……この時の祐親の心中、推し測るに余りある。
というのも、祐親にとって、一萬は特別の孫だった。結婚の早かったこの時代、四十にもなれば孫をいくたりも得るのが普通。けれども祐親は不運なことに、四十になっても五十になっても、孫を授からなかったのだ。
そして、もう六十に手が届く頃になって、ようやく得た初孫こそ、この一萬。当地の伝承によれば、この子の誕生を聞いた祐親は躍り上がって喜び、息子の河津の屋敷にしきりに使いを立てて「早く見せに来い」と催促し、まさに掌中の玉のごとく可愛がっていたという。
その、どんな宝にも勝る孫たちが、わずか五つと三つで父なし子になってしまうとは……。
できれば自分こそ、この子らと母を養ってやりたいが、老境の身ではとてもこの子らが成人するまで面倒を見てやることなどできない。
「安堵せよ! わしが必ず、お前らの新しい父を探してやるぞ。お前たちが、安心して育っていけるように……」
こうして、伊東祐親は大事な嫁と孫たちが身を寄せる先を探すため、親戚中を当たり回ることになったのだった。
……余談だが、この河津三郎の墓は、稲荷山東林寺(現、伊東市馬場町二丁目)の境内裏手に、昔のままに残っている。曽我兄弟の首塚※1もこの隣にあり、今も親子ひっそりと眠っている。
河津三郎の服喪※2も八十日が過ぎたある日、伊東祐親は曽我(神奈川県小田原市)に住む縁者、曽我太郎祐信を訪れた。この時の様子、講談に伝わっているので抜粋して紹介しよう。
――相模(現、神奈川県)の国、曽我中村の一箇荘の主、曽我太郎は祐親にとっては甥。満江にとっても従兄弟に当たる近い間柄の人物。
この曽我太郎がつい先頃、妻に死に別れた上、二人の子供にも先立たれたという知らせを聞き、祐親は大急ぎで見舞いに訪ねたのである。
「太郎殿、このたびは不幸なことであった。……死に別れた子供らはいくつであられた」
祐親が尋ねると、
「五つと三つでござった」
曽我太郎は言うなり涙ぐむ。
一方、祐親は聞いて大きく頷いた。――まこと、不思議なこともあるもの。世の中には裏腹なことがあるものだ。一方は妻と子を失い、また一方は夫を失うとは――。これこそ因縁というものであろう。
嫁の満江はまだ二十六歳の若い盛り。そして孫たちはいたいけ盛り。どうしても、嫁には夫が、孫たちには父が必要だ――。考えた末、祐親はずいと膝を進めて、
「太郎殿。突然の申し出じゃが、どうか聞いてくれぬか」
と切り出した。
「嫁の満江は夫に先立たれ、五つと三つの子がある。どうであろう、満江を妻にし、二人の子供を養育してはくれまいか」
まるで取って付けたような話。これを聞いた曽我太郎、もとより異存のあろうはずがない。
「ああ、祐親殿! それは願ってもない話でございます。まるで、亡くなった妻や子供らが、帰ってくるような心地がいたす……。それに、三郎殿の残された家族を助けることができるのなら、手前としても望むところ」
「おお、よく言って下された。しからば満江にも話をいたしてみよう」
こうして、祐親は再婚話を持って急いで満江の元へと戻ったのだったが――河津の館へ行った祐親が見たものは、思いもかけぬ光景だった。
※1:曽我兄弟の首塚……曽我兄弟の墓は日本全国津々浦々おびただしい数存在する(遺髪、遺品等を埋葬した墓もあるが、ほとんどは適当に名前を付けられただけ)。曽我物語によれば「首が埋葬された場所は曽我の花園と呼ばれる場所」であり、伊東に遺骨が埋葬されたかどうかは不明である。
※2:服喪……人の死後、喪にこもるべき一定の期間。