「悪いヒトじゃないんだけど、超個人主義者。そう、悪いヒトじゃないんだけどさ」

と、睦子は自分を納得させた。それまでも、数日の間とはいえ、何度か似たような経験があった。

「いずれ世の中は、白い神秘と黒い神秘との思想戦になります。私はその探究をしなければならない」

などと訳のわからないことを言って、彼女の知らない知人たちと、勉強会と称して信州のどこかへ行ってしまうのであった。その時もいつものことだと思っていたが、時間が経つうち、男にまんまと逃げられたことを、認めざるを得なかった。

彼女の女友達は、あの男は純粋というよりもエゴイストで、冷酷な性格なのよと言った。気弱そうに見せかけて、傲慢なタイプよ、あんたつくづく馬鹿よねえと諭された。

そんなことはないわよ、と睦子は、言い返した。あのヒトは不器用なの、とっても、信じられないくらいに。だからあたしが付いていてあげないと。本当にもう、ダメ男で、純粋で、世間知らずなんだから……。

しばらくして風の便りに、彼女の元からいなくなった彼が、千葉の田舎に住んでいるという噂を聞きつけた。

――あの日の記憶をほじくり返すと、鳩尾のあたりが苦しくなる。房総半島の晩春の陽に照らされた乾いた草の匂い。日向臭いゆるやかな緑の丘陵をしばらくバスで進むと、次第に動悸が、激しくなっていった。

小さな林を二つほど過ぎて、のんびりとした畑の道を訪ねていくと、古い農家の空き家が見えた。そこにかつての亭主は、若い女と一緒に住んでいた。それは家の前の小鳥の巣箱のような郵便ポストでわかった。名前を確認したのである。それは、何かしら童話めいた風情の漂う素朴な木の箱であった。奴はここで、新たな生活を営み、うきうきと楽しんでいるのだ。

残忍な気持ちが湧いてきた。無性に自分をこの場で、痛めつけてみたいとも思った。

同居している若い女は、目鼻立ちのはっきりした髪の長い美人で、ほとんど少女といってもいいくらいだった。インドふうの簡易な作業着らしきものを着て、睦子の元亭主と一緒に、軒下の日陰で土を練っていた。肉体労働の似合わない幼い顔立ちをしていた。スレンダーで小柄な体に、インド更紗がよく似合っている。

「ニセ仙人」は農家に畑を借り、自給自足の真似事をして、さらにはいっぱしの陶芸家を気取っているらしい。相変わらず、髪の毛を後ろで束ねていたが、すでに白髪が少量、混じっていた。

作業中の彼は、訝しげにこちらを見て、それからかすかに口を開けた。睦子は腕組みをしたまま、彼の驚愕したような目の色を、冷ややかに確認した。大きく開いた戸口から、家の内部がうかがえた。気まずい探り合いの時間があった。とりあえず、せっかく来たんだからと、室内に通された。

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