三 亀の前の厄難
治承四年(1180)以仁王(後白河法皇の第三皇子)は源頼政と平家打倒を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。伊豆の頼朝にも令旨が叔父の十郎行家から届けられたが、慎重な頼朝は即座には応じなかった。しかし、計画が露見して以仁王が敗死したことにより、頼朝にも危機が迫り挙兵せざるを得なくなったのだ。
その頃、政子の父の北条時政は、清盛以来十五年に及ぶ平家政権の緩みに失望を感じており、密かに聟の頼朝に期待かけ、監視人の立場を脱してそろそろ己の権勢を誇示したいと考えていた。頼朝が配所から舅と共に立ち上がったのは、治承四年八月、政子と結婚してから三年目で、その時集まったのはたった三十騎であったという。
二人は既に長女大姫を設けていた。『吾妻鏡』によれば、頼朝は挙兵の際、京都清水寺から下された聖観音像を髷の中に納めたと伝えられ、それが後に建てられた持仏堂(法華堂)の本尊となる。まず初戦の先駆けに、いまでも政子に執心する山木の判官を攻めて出陣の血祭りとし、生涯の吉凶を図らんとした。
赤入道の判官は、禿げた頭を茹蛸のようにして怒り狂った。判官にしてみれば、頼朝は折角の新妻政子を目の前にして拉致した、憎んでも余りある男だし、時政にいたっては頼朝の監視人のお役目も忘れ、甘言をろうして自分に政子を押し付けた張本人ではないか、怒るのも当然であり判官の気持ちも解からぬではない。
「おのれ、にっくき頼朝めが、捕まえて政子ともども裸にひん剥いて、二人並べてケツの穴を自慢の業物でほじくり返してやるワ!」
しかし、多くの郎党が三島大社の神事に参詣した後、黄瀬川宿で遊び歩いており、それでも死に物狂いで応戦したが判官はあっさりと討ち取られてしまった。これまた判官にとっては全く気の毒なことであった。その後、石橋山の合戦では平家側の大庭景親により散々の敗北の憂き目に合うが、同じ平家の梶原景時の心ある配慮で窮地を脱し箱根山に逃れることができた。