私は彼の言動に普遍的な原則を見る。それは、彼が善的な存在であると定義できた場合にのみ有効なものだが、しかし同時に、如何に時代が移り変わろうとも、そこにある実践可能な価値は、私が彼の行動様式の中に善的な存在であると定義することが可能な人類の最終形(少なくともその二分の一)を見出すことに成功する限り、いささかも減じることはあるまい。
彼の言動の支柱ともなるべきその精神性は、おそらくはこの世に文明というものが誕生したその瞬間からほぼ変わることなく、私たちの日常の中に程度の差こそあれ、またそれを理解することのない瀆神的な考えに染まる連中が多数跋扈したにもかかわらず、ついに絶えることなく、今尚美徳として存在し続けているものと、ほぼその機軸を一にしたまま、今後も彼を理解できる人々によって語り継がれていくべきものであり、私はそれをここに正確に記すことによって、可能であれば、未来を生きる人々に「実践可能な善の集積体の最も基本的な部分」として伝えていきたいと考えているのである。
おそらくはこういうことであろう。私たちが認識可能な領域というものは、実に広大であるにもかかわらず、そこに日常に転用可能な善的な秩序を見出そうと思うのであれば、一個人が取り組むべき範囲は、その十分の一、いや二十分の一以下でしかあるまいということである。
そしてそこにおいて模索されるべき哲学は、しばしば絶対の衣を纏いあらゆる勢力をも論破し得るものである。彼は確信する。そして彼は真実の一端に触れることによって、おそらくは「普遍とは何か」を知り、そして実践のために、認識可能な領域のうちの最も不明瞭な部分の定義に日々挑戦する。個性とは存在のことである。では存在とは何なのか?
そろそろ本題に入るとしよう。