「これを持っていきなさい」
ワルツさんは分厚い一冊の本をコランに差し出した。
「開いてみなさい。きっと奥さんの役に立つものじゃから」
ワルツさんがコランにあげた本は、僕が見たこともないものだった。
パラパラとコランが本をめくり始めた。とてもいい香りがする。ブーケの香りだ。本から流れてくる。
コランの隣で本を覗いたクロエはパッと目を輝かせた。
「なんて綺麗なの」
本はページが布でできていた。ひと針、ひと針、丹念に縫われたボタニカル刺繍が、すべてのページを埋めている。
薄紫の思わせぶりなライラック
エキゾチックな黒髪に飾られた深紅のバラ
真っきいろのゴシック調のひまわり
幽霊を思わせるホルタンシア
夏の小麦畑で揺れている赤いコクリコは雌どりのトサカみたいだ
白い山百合は受胎告知の絵の中で見るのとそっくり
僕は花冠のトケイソウがことさらにいいと思った。拡大鏡で覗いてみたくなるほど、綿密に縫ってある。天文学者が喜びそうなほど、ミニチュアールだ。
「誰かが作ったんだね。香りもするなんてすごいな」
カトリーヌも驚いていた。
「この本の中の花は枯れることはないだろう。幸い、スイレンはないから、安心しなされ」
ワルツさんも人がいい。こんな素晴らしい手作りの本を見ず知らずの人にポンってあげちゃうんだから。
本の香りはクロエを救ったらしい。彼女はワルツさんの手をそっと握った。クロエの頬はバラ色に染まっていた。
コランは晴れ晴れとした顔で、ワルツさんとカトリーヌを交互に見て言った。
「言葉にできないくらい、感激しています。これでクロエも楽になります。花屋の花を買い占めなくてもいいし、花を探して長い散歩に出かける必要もなくなります」
ふたりは再び重い緑の扉を押して、この不思議な本屋をあとにした。
扉が閉じた途端に憂鬱が本屋を埋め尽くした。そのうち花は香りを失くすだろう。来年の夏にはふたりが固くつないだ手を離すことになるだろう。悲しいけど、僕の鼻は確かなんだ。
緑の扉の向こう、ふたりが去ったあと、本の残り香さえも一瞬にして消えた。
ワルツさんは掌を机にべったりとつき、しばしの無言のあとに白いヒゲを撫でながら肘掛椅子に座り居眠りを始めた。僕も部屋の隅で丸くなってあくびをした。
視線を感じて薄目を開けるとカトリーヌが僕を見ている。
「じいさん、リュシアンは一体どこから来たの」
「好き嫌いの激しい人間の子供みたい」
よく言うよ、それは、カトリーヌ、自分のことじゃないか。ワルツさんを起こして聞くほどのことでもないだろう。
僕はカトリーヌに向かってくしゃみをまき散らした。
そしたら、ワルツさんは人差し指を上に向けて、
「ある日、空から降ってきた」といつもの調子っぱずれの節をつけて歌ったんだ。
うん、そうかもしれない。僕は空から降ってきたのかもしれない。