その教え子もとうに五十路を過ぎている。どうやら僕も必要以上に長生きしてしまったと言うべきだろうか。あれから七十年。この国は戦争も紛争もなく、テクノロジーの発達は目を疑うばかり、人生も八十、九十年はざらになった。だがその間果たして人間は幸せになっただろうか。

そもそも幸福という(はなは)だ抽象的な概念の是非を問うのは難しい。貧困や飢餓は(つら)いものだが、周りが皆貧困で飢えているなら豊かさの中のひもじさよりは耐えられる。死もまた然り、だ。点滴や胃ろうで生きながらえるより、ある年齢になれば従容(しょうよう)として死を受け入れる方が人間としての尊厳が守られる――と言うは易しいが、それでも生きたい人間は生きていたい。人の生き死にの価値を決められるのも本人だけだ。

一つだけ言えるのは若くしてやりたいことが一杯ありながら、無残に命を絶たれるほどむごいことはなかった、ということだ。我が国の戦争の記憶は悲惨だった。だがそれゆえに、長生きしている自分を恥じたり呪ったりするのは愚かなことである。むしろ笑って過ごすのがいい。

しかし人間の心が貧しくなり、笑ってばかりはいられない今だからこそ、あの空腹と困難の時代――焦土の中から立ち上がり、誰もがその日その日を生きるのにもがいていたころのことが(しき)りに思い出されるのかも知れない。

僕の名は近藤(こんどう)(けん)(すけ)、一応仏文学者だが、大学を退官してからすでに久しい。人生に船出してからの僕の個人史――結局父の希望には沿わないままに別の道を選び、五十年以上もそれに携わって生きてきたにもかかわらず、それも今となっては昔語りだ。

だがあの記憶だけは不思議に色あせることがない。彼女が初めて僕に話し掛けて語った過去、それを語る彼女自身の記憶もその時おぼろげに霞んでいたのに、殺された幼い子供の赤い血の色だけは鮮明に覚えている。僕の記憶の中の彼女の姿もまた、辺りがくすんで焦点のぼやけた景色の中で、実に色鮮やかだ。

あのころ人々は飢えて貧しく、身に着けるものと言えば兵隊色のカーキ色か、紺がすりのもんぺ一色、その中で彼女だけは目にも鮮やかな色のドレスを着て、魅惑的な唇に赤いルージュを引いて、そして笑っていた。まるで荒れ野に咲いた真っ赤な一輪のバラのような、心の中で決して消えることのない美しいひとの姿――。

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