私は佐藤さんを驚かせないように、ゆっくりとした口調で声を掛けてみました。

「佐藤さん、良い天気ですね。どちらにお出掛けになるのですか」

その時、佐藤さんは必死の表情で私に言葉を発したのです。

「お金を入金しなければ」

その時、初めて私は理解することができたのです。そう今日も月末、そして佐藤さんが、月末になると激しく正面玄関のドアを叩く理由が。

実は、佐藤さんは現役時代に東京都の下町で鉄工所を経営されていました。そして老人ホームに入居してもなお、佐藤さんは、「月末になると支払いや資金繰りに奔走されていた」のだと思います。この現役時代の苦労の記憶が本能に刷り込まれ、このような行動を取ってしまうのが分かったのです。

早くに奥様を亡くされ、お子様を男手ひとつで立派に育て上げられた佐藤さんは、今や悠々自適なはずなのです。しかし、佐藤さんにとっては老人ホームに入ってからも、この月末の支払いや資金繰りについての心配が大きく、ついにはそのために2階から飛び降りてしまうというような行動に出たのでしょう。

それから私は月末になり、佐藤さんがまた険しい表情で、激しく正面玄関のドアを叩いている時に、このように耳元で囁きました。

「佐藤さん、事務員が支払いや資金繰り関係を全て手配しましたよ」

そうすると、佐藤さんは安心し、落ち着いた表情となり、

「そうか」

と、ボソッとつぶやきながら居室に戻りました。

これはある意味、私が佐藤さんにウソをついたことになります。しかし、単なるウソと、時間を掛けて佐藤さんの人生をしっかりと受け止めての「ウソ」とは、その「ウソ」の意味が全く異なるのではないでしょうか。

私は、このことを通じて、入居者の生活を支えるためには「つかなければならないウソ」もあるのだということを教えていただきました。

4日目芸能人の付き人になりきって

私は、いくつかの老人ホームで施設長を経験しましたが、ある非常に思い出深い入居者を紹介させていただきます。

田中さん(仮名)は、私がまだ幼い頃、よくテレビに出演されていた有名な芸能人の方で、まさか自分がその方のお世話をさせていただくとは、夢にも思いませんでした。

私が、この老人ホームに異動してきた時、すでに田中さんは入居されていたので、途中からお世話をさせていただくことになったのです。

田中さんは認知症を患っており、自分の思い通りにならないと、持っている杖を振り回し、癇癪を起すようなこともありました。

この時、自分の勝手に持つイメージというのは、入居者のお世話をするうえで、すごく邪魔になるものだと、つくづく感じました。

それは、私が田中さんに持つイメージ。そう、幼い頃の私がブラウン管の向こうで明るく微笑み掛ける田中さんのイメージが強過ぎて、上手く向き合えないのです。