飛燕日記
ネットカフェの通路は狭く、薄暗かった。窓はあるが開けられず、人の臭気が煙のようにこもっている。人影はなく、いびきや身じろぐ気配だけがした。
ねぐらの動物を起こさないよう、適当な漫画を数冊取って個室に入る。二畳ほどのスペースは床全体がクッションになっており、踏むと沈んで足跡がついた。彼はスライド式のドアを閉めると、小窓にブランケットをかけた。
缶ビールを飲みながら漫画を読むうちに、活字が頭に入らなくなっていく。ひらがながほどけ、漢字は意味を失くしていく。静寂が耳を心地よく埋め、現実から切り離されていった。
「眠たい?」
ひそめた声が隣から聞こえてきた。
ああ、この人と一緒にいるのだった。眠気を乱す青緑色の響きが、憂鬱に、心地よく胸の奥に残る。うん、と答えながら目を閉じ、キスを期待した私はまだ子供だった。
固い手が胸に触れて、ゆっくりと動きはじめ、顔が熱くなった。
アルコールでゆるんだ頭の端が鈍く崩れていく。触れられた胸部は歪み、その指を飲みこんでいった。固定に失敗した標本が、薬液から取り出された瞬間にぼろぼろと形を崩すように、足がちぎれ、腹部が破れ、頭部がほころんでいく。
これで自分を壊せたと思った。もう戻れないくらいに。
だがその二時間後、私は元通りになっていた。
エレベーターで一階に降りると、巨大なキャリーバックに腰かけたひげ面の男が、ぶつぶつ言いながら頭をかきむしっていた。
私はまるで自分を壊せなかった。
外の寒さに覚醒していく中で、あきさんの赤い眼鏡フレームがやけに気になる。なぜ青緑ではないのだろう。似あわない色に不満が募ったが、口にすることはなかった。
それから二、三日やり取りをしたが、「次はいつ会える?」というメッセージに、返事をすることはなかった。