飛燕日記
マンションの非常階段から見た空は、世界を閉め切る暗幕のようだった。一ミリも光を漏らさない空に、山の影が焼きついている。その中腹に赤い光が点滅していた。弱い明かりは徐々に強まっていき、天体のように輝いたあと、また小さくなっていく。
気がつくと足を止めて、その瞬きを見ていた。いつまでも明滅し続ける人工的な明かりを見るうちに、胸の奥が締めつけられていく。
私は勘違いしていた。自分は誰かのために存在し、そこに居場所があると思っていた。人間風情が、人並みの幸せなんて得られるわけがないのに。もう、すべてを投げ出して諦めてしまいたかった。
馬鹿は馬鹿なりに笑って働かなくてはいけない現実を、実家から逃げるようにはじめた一人暮らしを、摩耗しきった人生を、なにも解決しないとわかっていても、また泣きそうになる自分を。すべてをぶっ壊したかった。跡形もなく、もう戻れないくらいに。死んでもいいと思った。だから、私は飛燕になることにした。
一人目は、あきさんという既婚男性だった。本名は知らない。繁華街にある小学校風居酒屋の前で待っていると、細身でスーツの男性がやって来た。どうも、と少し笑いながら眼鏡を押し上げる。その様子はどこにでもいるような一般的なサラリーマンで、声も会社の男性たちと似た青緑だった。
煙草のにおいが染みついたエレベーターは静かに上昇した。ドアが開くと店のレジに突き当たる。狭い店内に
「おかえり!」
という独特な挨拶が響いた。全員が体育教師のようなジャージを着ている。ホームページで一度見ていたが、いざ来てみると思った以上の癖があった。一週間ほど前なら
「ただいま!」
と返していただろうが、今は異様な空間にただ圧倒されるばかりだった。入口に下駄箱があり、靴を置くと個室に案内される。木の廊下の先にある教室に通されて、思わず部屋を見回した。壁には、かの有名な音楽家の肖像画と、手書きの合唱コンクールのポスターが貼られている。棚には鍵盤ハーモニカやリコーダーが並んでいた。まるで音楽室だ。
「えだまめの掴み取りは俺にまかせて」
静脈が浮いた大きな手が彼の自慢だった。初対面の人間と二人きりで少なからず緊張していたが、時間が経つにつれて彼の平凡な見た目に安心していった。廊下に並んだ食べ放題の駄菓子を一緒に取りに行って、また個室に戻る。棒状のチーズ菓子を開けながら、彼はバツ2だという話をした。