絶頂の幸福を打ち砕かれた満江は、悲嘆と、仇への憎悪に目を爛々と燃やし、やがて幼い兄弟たちを左右にかき抱くと、震える声でこう言うのだった。
「一萬よ、箱王よ。よく聞け。この名を決して忘るるな! 父上を殺めたのは、工藤祐経です。祐経こそ、御身たちが仇。昔、周の好王は七つにして親を滅ぼした仇を取ったという。そなたらはもう五つと三つ。よいか、きっと二十歳になる前に祐経が首を取って、わたくしに見せて下されよ。必ず――必ず!」
このように言って聞かせ、そのままワッと泣き崩れた。
未だ三歳の箱王は、何が何だか分からずに、キョトキョトとあたりを見回し、「母様、母様」と、母の裾に取りすがって、むずかるばかり。そのあどけなさが、なおさらに痛ましい。けれども五歳の一萬は、幼くともさすがは兄――。この少年は曽我物語に「年ほどにはあやしき(大人びている)」と書かれる通り、人並み外れて利発な質だった。泣きもせず、わめきもせず、つぶらな瞳をキッと光らせ、つくづくと父の死骸を見つめると、きっぱりと健気に言い放った。
「母様、ご案じなさるな。いつか大人になれば、わたくしが仇を取って見せます。それをお待ち下され。二所権現、三島大明神、氏神よ、お力を貸したまえ!」
そばでこの言葉を聞いていた祐親は
「おお、よくぞ言った、一萬!」と、悲しみの中にも孫の頼もしさがうれしく、止めどなく頬を濡らした。
「今の言葉、そちの父が聞いたなら、さぞや喜んだことであろう……。ああ、栴檀は双葉より芳しく、蛇は寸にして人を吞む。さすがは武士の子。三郎の忘れ形見よ。早う大人となって、見事に仇を討ち取り、孝子の名を挙げてくれよ……」
曽我物語や伊東の伝承によれば、河津三郎の葬儀が行われたのは、惨劇の日から三日後のことだったという。人々は若い盛りに命を散らした三郎を、なかなか火葬にすることができなかったのである。彼の墓は「花園山のほとり」に建てられ、記録によれば、総領息子に先立たれた伊東祐親はそのまま出家を果たし、我が子の供養に三十六万本の卒塔婆を、墓の周りに供えたと伝えられる。
亡き人は一筋の煙となって、初冬の空へと消えてゆく。これは一体本当のことなのか……、満江は未だ信じられぬ思いがして、身も世もなく泣きむせぶ。