河津三郎の死 兄五歳・弟三歳

――鎌倉時代に成立した一大英雄伝記、『曽我物語』の第一巻。冒頭から息をもつかせぬ緊迫感は、数多くの古典文学の中でも、群を抜いて見事である。舞台は伊豆半島の奥野(おくの)。全山、血に染めたような紅葉(もみじば)に染まる山奥――そこに息をひそめる、二人の刺客……。

さて、この刺客たちはそも何者であるか? そして討たれた若武者、老武者はいかなる身分の者であろうか?

物語を少々前に戻して紹介しよう。

この狙われた二人は親子で、老武者の名は伊東(いとう)(すけ)(ちか)、若武者は河津三郎という。この日、伊東祐親は近隣の武士たちを集め、奥野の山奥で狩りを催していたところだった。

狩りといっても、ただの狩りではない。何と、主賓は当時伊豆に流されていた源頼朝(よりとも)。伊東祐親は、平家から頼朝の身柄を預かって養っている、武士の棟梁(とうりょう)であった。

……これでピンときた方もおられるだろうが――源氏の棟梁、頼朝を預かったくらいの家柄。この伊東祐親の権力は、そんじょそこらの武士と訳が違う。なにしろ伊豆半島の半分は祐親のものだったというのだから――その勢力たるや推して知るべし。彼と、彼の強大な一族の名は、平家物語や平治物語など、当時の重要な軍記物には必ず登場する。

だから、この日の狩りも「伊東祐親が狩りを催すとのことだ! 是非とも出席しよう!」と、周辺の武士たちが来るわ来るわ。そのうち、歴史に名を残した人物だけでも五百人。その従者(ずさ)どもまで合わせると、二千五百を超したそうだ。講談によると、「この狩りのせいで伊豆の山々の獣は全滅した」とあるけれども、まんざら嘘でもなさそうだ。

さて、これほどの権力を持つ伊東祐親であるが……、日の当たるところには影ができるとの習い。この老武者にも当然敵があった。

工藤(くどう)(すけ)(つね)

彼こそは伊東祐親と、その子河津三郎の怨敵。そして――この物語の主人公たる曽我兄弟の宿敵となる人物なのである。彼の素性と憎み合いの原因は、またおいおいに説明しよう。

伊東祐親親子を恨む工藤祐経、「あの二人の首を見ないうちは……」と、例の二人の刺客、大見小藤太、八幡三郎に頼み込む。二人は大きく頷いて、「男子たるもの、一たび頼まれごとを受けたならば、何ゆえ辞退いたしましょうや! 必ずや、伊東の奴ばらを討ち取らん!」

木立に隠れ、狙うこと数日……。そして、二人が放った運命の毒矢――。

かくして、あの惨劇が起こったのであった。