【前回の記事を読む】「出て行きなさい」弟たちに慕われる優しい次男が起こした不肖

第一部

次男 政二 ── 実父への思い

親譲りの優しさで、日本人も中国人も分け隔てなく大事にしたので、従業員はよく働き仕事は順調だった。政二は収入の一部を、浜松の実家と長崎の房子の家に送金する。父母に預けている先妻との我が子、安子や和司には学校入学や卒業のたびに物を送った。

少し話が前後するが、弟・恵介の松竹撮影所助監督時代、まだ給料も少ないと聞いた政二は、お祝いに高額なコダックの八ミリカメラを送っている。

一九四二(昭和十七)年の農閑期、店の仕事を主任に任せて、政二は妻の房子と一歳の長男・誠司を連れて、一週間ほど日本に帰ったことがある。両親に二度目の結婚の報告は手紙でしたが、妻子を紹介しておきたかったのである。

房子は、自分が生まれ育った貧しい炭鉱長屋とは比べようもない、大きくて立派な「尾張屋」に少し気後れしたが、浜松駅まで義母のたまと義妹の作代が迎えに来てくれ、政二の両親や家族は優しく迎え入れてくれた。

祝いの膳が整えられた座についたとき、実家に帰って来た恵介と初めて会った。まつ毛の長い輝く瞳で、何の衒いもなく「やあ、恵介です。兄さんお帰りなさい。綺麗な人だなあ」と言われて、場の空気が和んだのを覚えている。

徐州の家は、「尾張屋」ほど大きくはなかったが、店と住まいは繋がっていて、奥の住まいには賄い夫のチャンさんと、女中のマーさん、その娘のクーニャンがいた。長男・誠司の後に双子の次男・廣海、三男・武則が生まれ、房子は夫・政二の愛情に包まれた何不自由のない幸せな生活を、生まれて初めて送っていた。

双子が生まれる前の一九四三(昭和十八)年七月、中国で五年の兵役を終えた政二の十一歳離れた末弟・八郎が、漢口から徐州の「木下洋行」に向かっていた。

八郎が除隊することを知った政二が、商売を手伝ってはくれないかと、手紙を出していたのである。八郎は兄が自分を誘ってくれたことが嬉しかった。政二の手足となり、主として農地へ赴き穀物の買い取りなどの仕事を担った。

その頃の「木下洋行」は、現地の人からも信用され営業は安泰だった。