政二から母・たまへの手紙

「三月二十五日附作代から便りが久しぶりに到着してやっとお母さんの様子を知ることが出来ました。以前に東京から疎開すると云う事も報が入ったきり音信不通の状態で何處へ疎開したのか案じて居りました。まさか浜松へ帰ったとは思って居りませんでした。

其の為当方も長いこと御無沙汰致して居りました。大変良い気候と成りましたからお母さんの病気も余程良くなったことと存じます。

お父さんも何かと御骨折で別にお体に変わりは御座いませんか。長く離れて居りますと御両親の健康のみ常に案じて居ります。一層の御注意と御静養を御願い致します。

近い所なら御両親はじめ敏三や恵介とも逢う事が出来るのですが、その点こちらの者は心残りが致します。又私としても八郎にこの二年の間に嫁を貰ってやれなかったことが何だか可哀想な気持が致しますが、時局下やむを得なかったと思います。お母さんの病気に対し八郎も少しも看護が出来なかったことを心中残念に思って居りますが、今日の状況下

(※四枚目の手紙紛失)

お母さんの名義に書き替えてそのまま貯金して御座いますから、御地の朝鮮銀行に同封の預り證を持って必要な額を願出てお受取り下さい。為替監理の関係上なかなか面倒とは存じますが理由さえ良ければ払出し下さることと存じます。

印鑑が送れませんので別紙「證」に印鑑を押して置きましたから引出しの際は「證」に金額を記入して銀行で手続きを取って下さい。大切な紙ですから

(※六枚目の手紙紛失)

静岡県引佐郡気賀町清水小野屋坂下とわ様方 木下たま様

中支江蘇省省徐州市公安街和福巷三三号 木下政二」

一九四五(昭和二十)年になると、戦況が悪化していく。

東京が空襲を受け、地方も空爆の被害が出始めた。沖縄戦を経て浜松も危なくなった。

祖父母や残された家族は「尾張屋」を後にして疎開先へと向かっていた。

政二は「木下洋行」の仕事だけでなく、身籠っていた妻・房子と三人の幼子の先行きに不安を抱き始めていた。終戦の三か月前、徐州の八郎にも再召集の知らせが届いた。

同年八月十五日、日本は敗戦を迎えた。中国で部隊が解散した八郎は、政二の家に無事に戻って来た。それから二週間後の九月二日、初めての女子、忍(筆者)が生まれた。

それからの「木下洋行」は、築いた財産を没収され生活は一変する。それでもしばらくは中国人との絆は切れず、別れを惜しんだ彼らは、収容所へお菓子やミルクを探して差し入れてくれた。

政二と房子、そして八郎、四人の子供たちは収容所から遺留民宿舎へ移る。その後は、度重なる苦難を乗り超え、一九四六(昭和二十一)年六月にようやく帰国の乗船が叶う。

八郎の協力がなかったら、幼子四人を抱えて、家族全員が無事に日本の地を踏むことができただろうかと、房子は当時の日々を思い浮かべるのである。