【前回の記事を読む】出迎えてれた夫の家族…生まれて初めて送った「何不自由のない幸せな生活」
第一部
政二から母・たまへの手紙
浜松の「尾張屋」は空襲で焼失。母・たまが脳溢血で倒れて、父・周吉や弟・敏三、妹の作代や芳子、政二の子・安子と和司も気多村勝田で細々と暮らしていた。
帰国した政二は、両親との再会を喜び合うのもそこそこに、資産分けとして梅林を譲り受け、売却したお金を持って東奔西走、中国時代の取引先を大阪に訪ねるが徒労に終わってしまった。友人の倉庫を借りて家族を住まわせ、職探しをする日々。日雇いの仕事はあったが、一攫千金を夢見ていたのだろうか。賭け事に走った政二の体はやがて結核に侵されていく。まるで小説の世界のように。
みるみる痩せていく政二に代わって、房子は再び働こうと奮起する。熱海の旅館に住み込みの口を求めたが、四人の幼子を抱えていては身動きが取れない。中国で、ともに暮らした三歳年上の八郎しか相談する人はいなかった。
一九四七(昭和二十二)年、その頃の恵介はすでに監督として映画作りに勤しんでいた。そして、「尾張屋」を失った最愛の父母を一刻も早く迎え入れようと、松竹に多大な借金をして辻堂に家を建てたのである。
辻堂の家には、父と病身の母の外に安子と和司も来た。映画作りに忙しい恵介の事細かな手伝いをするために、中国から帰国した弟・八郎も来ていた。恵介は八郎から、兄・政二が結核に罹っていることや、その家族の様子を聞いて、まず政二を大船の病院に入れた。義姉の房子は熱海の旅館に住み込みで働くことを聞き、逞しい女性だと思った。
四人の子供のうち、長男・誠司と双子の一人次男・廣海は、房子の実家長崎に預けることになったが、体が弱い双子の一人三男の武則と末子の忍は、八郎が世話をするからと辻堂の家に連れて来た。辻堂の家では、周吉も寝たきりのたまも、政二の家族のことを心配していた。
恵介が映画製作という大きな仕事をこなしながら、兄弟のために手を差し伸べていることは、祖父母にとっても嬉しかったに違いない。かくして四歳の武則と二歳の忍は、父母の下から離れて、恵介の家にやって来たのである。
一方、政二の帰国後の生活は悪い方にばかりに傾いていった。中国での成功を再びと一攫千金を夢見たが、再起を果たせないまま賭け事にまで手を出してしまった。挙句に結核に侵され、家族はバラバラになり、弟・恵介の助けを借りている。最愛の父母にも顔向けができない。大船の病院に入院したものの、何もできない療養生活に苛立ちを覚える政二であった。
祖父・周吉似で背が高く、男前で優しい性格が仇になったのだろうか。いや、政二は木下家の中では女に弱い男であった。現実から逃避するように、同じ病院に軽い結核で入院していた若い女性に心を移し、不倫してしまう。働いて、夫のために熱海から入院費を運び、二人の子供が世話になっている長崎の父母にも送金していた房子は、そんな政二を許すことができなかった。やがて二人は別れることになってしまうのである。
忍はまだ幼かったが、中国で生まれたときからずっと近くにいて、辻堂ではひたすらかわいがってくれる八郎にすっかり懐いていて、父母のそんな状況は知る由もなかった。その日、八郎に連れられて大船の病院に父・政二を見舞いに行った。武則が一緒に行かなかったのは、体が弱かったので結核が移らないようにしたためである。
病室で白い服を着た政二が、ニコニコとして忍の頭を撫ぜてくれた。父と会ったこの日、どんな言葉を交わしたのかは覚えていない。病院に向かう道を歩いていたときの、砂塵を巻き上げながら走り去って行った黄色いバスの後ろ姿だけが、今でも目に焼き付いている。