私の五歳の誕生日に写した一枚の家族写真がある。七歳の武則が慶応義塾幼稚舎一年生に入学が決まり、辻堂からの通学を心配した恵介によって、東京目黒の一軒家に住めるようになった頃である。房子は恵介のおかげで、長崎から誠司、廣海を呼び戻し、武則、忍とともに新しい生活をすることができたのである。
写真の忍は八郎にべったり甘えている。政二がいるのは、まだ房子とは離婚していない状態で、結核の体調も良かったからだろうか。
政二から忍への手紙
「しのぶちゃんこのあいだはおてがみをありがとう。まいにちおげんきで、ようちえんにいったり、ピアノのおけいこをしたり、おとなしくあそんだりしていて、たいへんうれしくおもいます。はやくしのぶちゃんのピアノをききたいとおもっております。おぢいちゃまやしょうきちおぢちゃま(恵介)、はちろうおぢちゃまによろしくいってください。またおてがみください
昭和二十六年二月二十二日」
「九がつ二かはしのぶちゃんのたんじょうびでおめでとう。六ねんまえのきょうしのぶちゃんはしなのじょしゅうというところでうまれ、そのひはにほんのせんそうにまけたしきをするかなしいひでした。しのぶちゃんのうまれたおうちにはいまだれがすんでいることでしょう。おとうさんはいまでもしのぶちゃんのうまれたしな(支那)がなつかしいです
昭和二十六年九月二日」
私は、政二からもらった葉書を二枚だけ持っている。きれいな平仮名ばかりの父の手紙を読みながら、戦争が家族の幸せを引き裂いたのだと思わずにはいられない。私が十二歳の一九五八(昭和三十三)年七月十四日、母と離婚して別の女性と暮らしていた政二が逝ったことを静岡で知った。