【前回の記事を読む】複雑な歴史の重なる神々の土地「伊勢」その“恐ろしさ”の所以は…
第一章 神々は伊勢を目指す
その猿田毘古神の、阿邪訶に坐す時、漁して、比良夫貝にその手を咋ひ合はさえて、海鹽に沈み溺れたまひき。
「阿邪訶」とは伊勢神宮に近い、現在の三重県松阪市阿坂の海岸である。だから猿田彦神の漁労形態は、潜水漁法によって貝などを採っていたことが分かる。現在も伊勢・志摩地方では、海女さんたちの潜る姿を見ることができる。
猿田彦神社の在る地名は三重県伊勢市宇治浦田であり、同神がユダヤ系であることの傍証にもなっている。
宇治浦田→UDI―URA―TA(ユダヤ―浦の―田)
猿田彦神社を奉斎する神家は「宇治土公」と尊称されて、ここ「宇治」の地主であった。近鉄駅名「宇治山田」にも、「案山子」が守る「山田」が出てくる。「UDI―YAMADA」の意味は、「ここ宇治が神ヤハウェの土地である」、と宣言しているのかもしれない。
地主神であった猿田彦(その子孫の宇治土公)は、後年、その土地の一部を割いて、伊勢神宮の創建に協力した。垂仁天皇25年に、倭姫命が「天照大神」の御杖代となってご遷座に適したところを探して、近江から美濃までを遷幸されたが、最後に鎮座された場所が、現在の伊勢神宮内宮であった。
この神話的事実を簡潔に表現したのが、猿田彦が天孫ニニギの前に現れた場面である。ニニギがまさに天降るとき、「天の八衢に居て、上は高天の原を光し、下は葦原中國を光す神」として出現した。そして、「先導役」として天孫を待っていたことを告げる。先発組の神として、後発組のニニギをご案内すると申し出たのである。これが「八衢の神・道案内の神」としての、猿田彦のもう一つのお顔である。
猿田彦の役割をまとめると、次の通りとなる。
・良い田の守り神(農耕神)
・ユダヤ系の神・海神・漁労神(潜水漁法)
・八衢の神・道案内の神(天照大神とその孫ニニギの先導役)
猿田彦神がユダヤ系であることは、同神を祖とする「宇治土公」の苗字=二見氏にも示されている。「HUTA(例:二荒山=日光)」は「HUTU(例:経津主)」と同じく「ユダヤ(の)」を表し、「MI」は「美」=「神」の意である。前掲書の、二見氏に言及した部分に出てくる「振魂命」(HURU―TAMA)は、またも「ユダヤの玉」と解することができるから、これでもかと言わんばかりに少しクドイ著者である。
(猿田彦)大神は興玉神また振魂命と御名を唱えるのも、伊勢湾の沖から〈常世の重浪〉にのって漂い訪れる海霊、もしくは荒磯のつづく伊勢から志摩へと海路をたどる船霊と考えられていたからであろう。古く『皇太神宮儀式帳』に宇治土公小紲という磯部族の長老がみえ、後代のことながら二見に居住して二見姓を名告ったのも、海浜への郷愁が感じられる。(『猿田彦神社誌』)
有名な「二見ヶ浦」は、ユダヤ神の浦という意味であろう。其処の二見興玉神社の祭神は、当然ながら、猿田彦大神である。そして伊勢にお詣りするなら、最初にこちらに詣でてから、そのあとで外宮、内宮の順に巡るのが慣わしになっている。