その後、文学・哲学・宗教に加え、現実学の経済・法律の知識も食い漁ったので、三度の飯を食べるくらいの「振りや騙しや誤魔化し」はできるようになった。ただ、一人(独り)ぽっちをつらいと感じ、我が道を行く「一人教」の改宗を考えたことはない。

考えてみれば、ダダイスト・シュールレアリストも印象派も、芸術思想では総じて少数派であった。明治期の日本派の画家も、身近にいる偏屈やこだわりの農業者も料理人もそうであるが、社会には「少数派村」が必ず存在し、「村」の住人は必ずいる。

また、飯の種とは縁遠い所業の、面白い偏屈さんもいっぱいおられるではないか。「ぽっち」の無用者の群れにもこと欠かない。こんな人生、はたして得をしたのか損をしたのか分からないが、よくも世間様とは少しばかり違うことに興味を持ち延々とやってきたなぁと思う。

大衆映画の寅さんも石原裕次郎さんの映画も見たのは1本のみ、彼の歌も歌えない。万国の食事販売が中心の万国博覧会も、その使命は終わったとの考えからどうしても足が向かない。大装置やゲームで遊ばせていただくアメリカ式の何とかランドも、遊びは自分で見付けるものとの頑固さから無料券があっても行かない。NHKの大河ドラマも食指が動かない。皆さんが大好きの芸能人・スポーツ選手のトーク番組になるとテレビのチャンネルを変えてしまう。

少数派と悩む諸君、こんな偏屈人生も思えば結構楽しいではないか! 大きい物語を紡ぐだけが人生ではない、小さい物語を作り出し演じるのもかけがえのない至福ではないか! 平均的なものからかけ離れた変わり者も無用者も漂流者も結構いけるじゃないか! 変わり者同士の求心力は大きいので、仲間が見付かれば付き合いの味が濃くて寂しくはないぞ! そう訴えておこう。

考えれば、LGBTや日本共産党員も、性的ないし政治思想的に少数派であろう。共産党員はカミングアウトすれば就職口を失いかねないのに対し、LGBTのそれはまだマシなのかもしれない。

ただ、私は少数派を気取っているわけでは、断じてない。思えば、世間様一般ではなく、他に楽しいことがありそれしかなかっただけである。庶民でもけっこう好き勝手に生きられるゾ。さてさて、少数派は、シャバを彩る(あや)とでも考えようではないか。

【前回の記事を読む】マスコミが流すべきなのは「非日常」ではなく「庶民の日常」だ