第3章 AI INFLUENCE

第4項 希求

2 人々が求めていたもの​

この頃の社会を“検索社会”というらしい。人々は、たくさんの人々の中にあって一人、検索に勤しんでいた。ふと、数年前に友達の女の子と飲んだときの事を思い出した。彼女は「東京は疲れるよ。」と言った。

「どの辺が?」
「人を処理するのがウザい。」

彼女は福祉の仕事をしている。休みの日は家からあまり出ない。とても素直な性格の子だ。だから自分の感じているキツさを素直に言葉にしている。

「検索ワードを足してヒット件数が減るのを見ると癒される。」とも彼女は言った。検索が人を癒している。思い出すにそれは、スマホが急速に浸透した理由としてとてもしっくり来るような気がした。

人々は検索するという行為に癒されている。これが癒しのように見えるのは、資本主義的プロセスとして、欲望の実現方法を選択肢として余りにも多く提示しすぎた結果、人々がいちいちそれを選択することにクタクタに疲れてしまったからだ。

私はロストジェネレーションと呼ばれる世代の走りに位置している(1977年生まれ)。ワックスで無造作に短髪を散らし、社会学者の宮台真司(宮台氏の考察は後で引用する)を読み漁り、ホンマタカシの写真集を買い(郊外のファミレス“Jonathan”を写した1枚がとても好きだ)、自分でも日常の風景写真を撮った。

ポストモダンが流行し、「決定不可能」という概念のもと二項対立は忌み嫌われ、あらゆる境界線が溶解し、新時代の到来が声高に叫ばれ、“価値観は人それぞれ”という言葉が標語化した(実は自分の価値判断を表すことを回避し、人と深い関わりを避けるのに最も便利な言葉である)。

もっとも、芥川賞を受賞された村田沙耶香氏の『コンビニ人間』に厳しく指摘されているように、世の中は実は旧態依然の常識に基づく価値基準が半ば怨念のように支配しており、価値観はさほど多様化していない。樹木が地表の枝葉が枯れていても根は容易には朽ちないのと同じく、人間社会の支柱たる道徳感情は根強い。

それは放任主義を謳いながらも子供の挙動を逐一(ちくいち)見張る母親のように、価値観の多様化を強く制約している。価値観は半ばそのままに、物事のバリュエーションのみが増えた。

缶コーヒー銘柄だけでも100以上はあろうか(※後でたまたま見たネットトピックに拠るとメーカー30種、品数300種以上あるそうだ)。飽きたらず、季節限定商品も企画され、私もついつい見つけては飲んでしまう。

価値観の多様化に後押しされて商品のバリュエーションが増えたのなら、選択肢が増えても選ぶことはさほど困難なことではない。自らのそれぞれの価値判断で欲しい、或いは必要な商品は自ずと決まってくるからだ(only A→a~x=困難、A→a、B→b、C→c=容易)。

主に廉価商品に於いて商品の種類ばかりが増えるのは、シンプルな商品では極端に値段の安い企画段階からの海外製品等に圧倒・圧迫され、それよりは高い値段をつける根拠となる付加価値の必要性から、いわば売り手のつけたい価格から逆算するように謳われた、少し意地悪く言えば取って付けたような機能性の数々が個々の商品にはっついているからだ。

おろしたてのエプロンを着けた綺麗な女優さんが、洗い立ての、今度こそ真っ白(目に痛いほどだ)な洗濯物を物干し竿に掛けるのを我々は何度見てきたろう(最近は目に見えない細菌の数と脅威と除去を謳っている)。TVは壁紙の様に薄くなり、その後ますます薄さを増し、遂にはその技術提供者たる会社そのものが消えてしまった。

「ここが違います。」「ここが新しいです。」「これまでのものでは困ります。」と、先駆の企業は価格崩れの雪崩から逃れるように、商品の特異性を謳い続けなければならない。需要サイドの望みや速度(ペース)を遥かに上回る、供給サイドの事情による選択肢の増加が、消費者としての人々を疲れさせている。

“悩む前に買わないことですよ。”

断捨離も流行った。お金も浮くし部屋はスッキリするし、それは一定数の人々の気持ちと財布と居住空間バランスを安定させた。が、生活スタイルの主流を占めるには至らなかった。

やはり、せっかくこの時代に生まれたからにはこの時代の恩恵を楽しみたいものだ。我々は、日々更新される、より良い生活、より相応(ふさわ)しい我々の在り方を提示する商品群から、目を離すことは出来ない。