【前回の記事を読む】「三権分立」から「四権分立」へ。人類の目指すべき豊かさへの道とは

 人間のいのち

私は、この広辞苑や明鏡国語事典に見るいのちの捉え方は、野の生きものたちのいのちを考える場合には正解であっても、人間のいのちを考える場合には必ずしも正解とは言えないような気がするのです。

人間の生きてゆく営みは、野の生きものたちのそれからするとかなりの進化を遂げてきています。人間のいのちは、生と死を見極める生理的いのち(生物学的いのち)はもとより、生きてゆく営みのクオリティを見極める精神的いのちの面からも捉えていかなければならないのではないでしょうか。

野の生きものたちが生きてゆくということは、口絵に見るレベルⒶの反射的・調節的作用に生かされつつ、レベルⒷの本能的・情動的行動で生を紡いでいくということです。

人間が生きてゆくということは、レベルⒶの反射的・調節的作用に生かされつつも、突き上げてくるレベルⒷの本能的・情動的衝動をうまくコントロールして、どう生きてゆくべきかを模索しながらレベルⒸⒹの精神的いのちを紡いでいくということではないでしょうか。そういう意味で、野の生きものたちのいのちと人間のいのちを、「生物の生きてゆく原動力」とひと括りにしてしまうと、人間のいのちの尊厳性が見えにくくなることが懸念されます。

作家の柳田邦男氏は、その著『いのち~8人の医師との対話~』(講談社2000)で、

「人間のいのちには、酸素や水や食べ物を摂取して生体機能を維持している生物学的いのちと、精神生活や社会生活や信仰生活を営んでいる精神的いのちがある」

と述べています。

私は、この捉え方にすごく共感している者の一人です。もちろん、生死のいのちを軽んじているわけではないのです。「いのちあっての物種」という場合のそのいのちは、図「人間のいのち」に見るように、生物学的いのちの土台部分の「生理的いのち」としてしっかりと捉えられているのです。

写真を拡大 図 人間のいのち