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世の中には、二進法が苦手な者が沢山いるはずだ。私もその例に漏れない。ONとOFF、YESとNO、こんな選択と決定をさせられてたまるか!という意地や矜持もある。
資本主義は、効率的な二進法的手法で進歩と進化を遂げ、成功を収めてきた。ただ、「二進法オンリー」ではなく、「ファジー」も取り込んで進化するからこそ、本物が目指せるのであり、二進法オンリーでは、どこか底が浅いものになる。しかし、私にはこの効率的な選択決定法は根本的に間違っているとの確信が根幹にある。
本当の本物は、「資本主義的」からは生まれないという確信である。でもでも、二進法を苦手とする者に、資本主義的成功者はおそらく少ない。二進法の選択時にいつも躓きばっかりしていても、一回限りの人生、それはそれでいいではないか! そう考えようじゃないか、皆の衆。
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ダメな人生、太宰治のように、生きててごめんなさいという気持ちにはなれないが、我が人生、不甲斐なく何の貢献もできなかったなあ、こんな生き様を一体誰にそっと小声で詫びたらいいのか? そんな気持ちが時々頭をもたげてくる。
自分に対して、また親、妻、子ども、兄弟姉妹、近隣、親戚に対してでもあるが、社会のうちどれに対してか、全部であるような気がするし、どれでもないようにも思える。一方、誰に対しても詫びる必要などあるものかと思いつつも、内心はそう単純ではなく、小声で誰かに詫びたくなる忸怩たる気持ちが底に淀んでいる……。
「何だかとにかくゴメンナサイ」
なのである。庶民なら誰しも、これに似た自己風景に思い至るはずである。哀しいかな、不可避といってもいい。どうしようもないものに押し潰されそうになりながら、それでもやり直しがきかない、しかも後悔とお詫び付きの人生がそこにある。こんな気持ちが積み重ねられた膨大な数の庶民史の重さを、地球という星は支えきれるのだろうか。