そこで日本国民がまずしなければならないことは、自分と国家の関係を見つめ直すことであると考える。

現在の日本は概ね資本家階層(金持)と中産階層及び下層の三層で構成されているといえる。その大半が中産階層(気分的も含む)といえるであろう。ならばこの中産階層の物心両面(税金と愛国心)の支えが、国家を支える最も大きな力になっているといえる。

日本の将来は、この中産階層の国家に対する考え方(国家観)にかかっているといっても過言ではないだろう。故に中産階層の方々一人一人に、自分と国家についてあらためて問い直して頂きたい。

何のために教育を受け、何のために働き、何のために生きているのかと。このことは突き詰めると実は生かされている(他律)ことに気付かれるであろう。ヒッピー(脱社会的な人々)でない限り、人は何らかの集団あるいは組織に属し、そこに何らかの貢献をして配当を得て生活をしている。

属することによって一人一人がおのずと社会生活を営んでいるのである。いや社会生活をさせてもらっているともいえる。その集団や組織をまとめたのが国家である。ならば国家とは個々人の集まりということになって、根本は個人にあるといえる。

それはすなわち「国が自分に何をしてくれたか」の以前に、「自分は国に対して何ができたか」が前提としてあることに気付くであろう。福沢諭吉の言う「一身独立して一国独立す」は、そのことをいっているのではないか。

日本は「まえがき」で述べたように「和魂漢才(わこんかんさい)」から「脱和入(だつわにゅう)(おう)」に進み、「和魂(わこん)洋才(ようさい)」を目指してやってきた。今や「和魂和(わこんわ)(さい)」(日本古来の和の心を大切にしつつ他国に左右されない独立国家としてやっていく)の時代に入るべき時にきているのではないか。

教育基本法に「第一条:人格の完成をめざし(中略)、第二条:自主自律の精神を養い、伝統と文化を尊重し、わが国と郷土を愛する」とある。これは明らかに戦後GHQがわが国と国民にしかけた隷属的な支配体制の悪影響からの脱却を目指せということではないか。

昭和二十年十二月八日、在東京米軍司令部から出された『太平洋戦争史』の中の、【付録6翻訳】「日本及び朝鮮における非軍事活動の総括(抜粋)」(江藤淳著:『忘れたことと忘れさせられたこと』文藝春秋・一九九六年)。この内容こそが、ソ連共産党が世界にしかけた共産主義インターナショナルやナチズム及びファシズムが採用した、国民と国家を分断して自分たちの側に抱き込むという工作活動であったと考えている。

敗戦の傷心と民度の高さ(デジタル性)から、その工作はわが国民に急速に深く浸透したと考えている。特にこの工作活動に感化されたとみられる知識階級(リベラル派)の逆転向(戦時中転向して戦後再び左翼思想へ回帰)が、災いをさらに大きくしたとみている。