「また始まったよ、あんたの性善説が。あたしゃあの男、どうも虫が好かないんだ。世の中、あんたが言うようにいい人ばかりだったら、凶悪犯罪なんて起きやしないさ」
「すべて、何か意味があるんだわ。何事もポジティブでいかなくちゃ。ポジティブに生きるためには、物事のいい面を見ることよ。それと、日々の健康管理。あのね、袋田さん、あんた姿勢が悪いわよ。体と心はつながっているの。大切なのは心のコントロールよ。少なくとも、愚痴は言わないこと。人様の悪口もね」
紺色の作務衣の腰に両手を当てて、励ますような口調で店主は言った。
「チッ、また、お説教かい。ふん、この年で何がポジティブだい。死ぬのが近づくってのは、嫌でもネガティブになっていくことさ。ときどき風呂上がりに自分の体を鏡で見るだろ。死にたくなるよ。妖怪が一匹、そこにつっ立ってるんだ。秋吉台の鍾乳洞の天井みたいな無惨な光景さ。たるんだ裸の皮膚の上には、諸行無常って大きく書いてあるんだ。
それですべてが嫌になって、安物のウイスキー煽って、寝ちまうのさ。あたしゃ、自然体でいいよ。もう、そんなに先がないんだ。口の悪い愚痴っぽいクソババアで、たくさんでございます」
店の入口脇の白樺が、金色の木洩れ陽を床に散らしていた。
店主と常連客はしょっちゅうこんな他愛もない会話を交わしていた。