私が途方に暮れていると、ミシミシと音を立てて階段を上がって来る足音が聞こえました。
「いらっしゃい。佐伯さんですな」
見ると八十歳を超えたくらいの小柄な品の良い白髪の老紳士が、にこやかな笑みを浮かべて立っています。
「浜村さんですか」
「浜村諭です。刑部所長は浜さんと呼びますがね」
「初めまして、佐伯俊夫と申します。今日はこの月ノ石町についていろいろ伺いたくて、お忙しいところ、お時間を割いていただき」
「ははは、堅苦しい挨拶はそれまでにしましょう。私はこのとおりいたって忙しくないですし」
浜村館長は晴れやかに笑いました。
「新しいお住まいの住み心地はいかがですか?
古いけどなかなか趣のある家でしょ」
「私の家をご存じなのですか」
「あれ、刑部さん、言ってなかったのですか。あれは私の家なのですよ」
「浜村さんの?」
「家内が五年前に亡くなって、私も高齢だ、娘が心配しましてね。今は近くの小さなマンションに娘一家と一緒に住んでいます。二人の孫も入れて五人の大所帯ですから賑やかで。あの家は刑部さんとのご縁で、お宅の会社の借り上げ社宅として使ってもらっているのですよ」
「そうだったのですか。所長も教えておいてくれたらよかったのに」
事情を知らず恐縮する私に、
「そこが刑部さんのいいところなのですよ。不要な先入観や余計な情報抜きに、人と人をフラットな状態で出会わせてくれる」
浜村さんの刑部所長評には私も大いに同意できました。刑部さんには性別や年齢はもちろん、学歴や経歴、出自などのバックボーンを一切問わず、一人の人間として個人を見、そして対等に向かい合う、そういうところがありましたから。
「この月ノ石は、全国的には無名の地です。が、学術的な側面、歴史的な側面ではある意味非常に存在価値のある特別な場所だと私は考えています。
歴史的な側面というのは、そのまま未来的な側面と言い換えることもできる。ただその価値が、現代の日本の状況や人々が無意識に作り上げたヒエラルキーにそぐわない、取り上げるに足らない価値だというに過ぎない。今現在では需要がないとでも言いましょうか。
だが価値観や世界観が劇的に変われば、この町を無視してきた人たちもわれ先にとこぞってこの町をマークするでしょうね」
浜村さんの話を聞きながら、私は確信していました。この人になら、駅で見た例の少女や、ついさっき喫茶《ぱるる》で遭遇した謎の女性の話をできる、と。