友田博士の説は資料批判上の不十分性やそれに基づく失考等を少なからず含んで、錯乱している部分が少なくなく、甚だ読みにくいのであるが、とはいえ、基本的には正鵠を射ていると思われる(博士は同書で、この他に「二年引き上げられた紀年法」の存在を長々と力説しておられるが、こちらは干支紀年を2年誤った誤年表に基づいた一群の誤編年史料にすぎず、2年引き上げられた紀年法を伴う暦法があったとする友田博士の考証は明らかな失考である)。
この「一年下った干支紀年法」、旧干支紀年法は、我が国においては大和朝廷の初めから持統(称制)4年紀=持統即位元年紀(690年)以前まで、連綿と公用されてきた干支紀年法である。従って天武朝に成立したことが確実な古事記の15天皇について記された崩年干支は、当然、旧干支紀年法に基づく干支年である。
その最も解り易い例が用明天皇の崩年干支月日、「丁未年四月十五日崩」である。書紀では「丁未年四月癸丑【9】」となっており(日付の干支のあとの【 】内の数字は干支を数値に換算した数値であり、四月癸丑が4月9日であることを示す。以下も同様である)、日付が前者の15日に対して後者では9日となっていて異なっている。
この相違は、古事記の崩年月日に基づく旧日本紀の崩年月日が「(旧)丁未年(588年)四月癸丑」であったのに対し、書紀はその換算をさぼってそのまま「(新)丁未年(587年)四月癸丑」としたため、古事記の4月15日が4月9日に化けたのである(元嘉暦でも、第4節に述べ巻末に一覧表を掲げた修正後漢四分暦でも、588年4月の朔は35己亥であり587年4月の朔は41乙巳であるので、同じ49癸丑が元来は15日であったのに、書紀では9日に変わったのである。なお、干支の直前の数字は、干支番号であり、以下でも同様の表示法を用いる)。