【前回の記事を読む】史実に忠実な6~7世紀だが…修正すべき日本書紀の編年のズレとは

序節 日本書紀の編年のズレ

天智3年紀(甲子年・664年)2月9日条に、いわゆる甲子の制の宣命記事がある。

大皇弟(大海人皇子〔おほあまのみこ〕。中大兄皇子の同母弟。のちの天武天皇)が宣命して、改正冠位を施行、諸氏に刀・武器を賜与し、その民部(かきべ)家部(やかべ)(民部・家部ともに諸氏に供与された公民。令制の家人に当たるとされる)を定めたことが記されている。

しかしこの664年という年は、前年663年8月にわが救百済軍が白村江で大敗し、救百済軍事が完敗に終わった翌年であり、その5月には唐の百済鎮将の使いが我が国に乗り込んで来て、12月に至るまで、厳しい戦後処理交渉を突き付けていた年である。従って、この甲子の制の記事もまた、1年繰り下げたほうがよさそうである(実際そうするべきであることが証明できる)。

天智8年紀(己巳年・669年)の是冬条に、高安城(たかやすのき)を修造したこと、斑鳩寺(いかるがでら)に火災があったことが記されている。ところが、これらはそれぞれ天智9年紀(庚午年・670年)の2月条にある高安城の修造記事、同年紀4月30日条の法隆寺(=斑鳩寺)の火災記事と同事重出であろうと考えられ、従って、ここでもまた、天智8年紀是冬条の方が1年繰り下げられるべき記事と考えられる。

他にも書紀には、その編年を1年繰り下げるべき、あるいは繰り下げる方がよいと考えられる記事・事件が少なくない。

大海人皇子が大友皇子(おほとものみこ。天智天皇の長子)を討った、いわゆる壬申乱(従来説で壬申年・672年に生じたとされる大乱である)も、1年繰り下げるべき事件の著名なものの一つである。

而してここにはある単一の共通した理由・からくりが存在する。

当時公用の干支紀年法が、現行干支紀年法より1年下った古いタイプの干支紀年法であったことが深く関わるのである。