【前回の記事を読む】【小説】「この大学にかけてみよう!」進学を決心させた論語の言葉

第三章 宿舎での生活

宿舎の食堂では議員の子息や子女も多く見かける。親しい者同士は同じテーブルを囲み、四方山話に花を咲かせながらの食事となる。食事の利用は朝六時から九時まで、夜は五時から九時まで可能であった。予約があり、間に合わない人には、食事にラップがかけられて保存される気配りもあった。

食堂の利用者の中には後年、北海道知事や衆議院副議長を歴任した横川実孝氏もよく見かけた。彼は、雄太と同年輩の東大生であったが顔面やや青白く、痩躯の青年であった。父親は善雄氏であるが、議員本人は別の議員専用食堂で食事を摂っていたようだ。

このような環境のなかで、何人かの議員秘書とは仲良しとなった。特に石川県の金沢・小松を地盤とする、社会党の岡田議員の秘書である山本氏とは昵懇の仲となった。宿舎の食堂で夕食時に、同じテーブルで一緒になり気さくに話しかけられたのが、親しくなったきっかけである。

当時、衆議院は中選挙区制度を導入していたから金沢と小松は同じ選挙区であった。中選挙区制の選挙制度は、一九九六年になって、「小選挙区比例代表並立制」へと転換した。

山本さんは現役の小松市議会議員であり、また司法書士の資格を取得して司法書士事務所を経営していると本人からきかされていた。と同時に岡田議員の秘書も兼任していたから、金銭的にはやや恵まれていたのかも知れない。

彼がよく口にする「親父さん」の岡田議員は医者であり、また国会議員でもあったが、本妻とは別の女性も面倒をみていたようだ。いわばお妾さんである。山本氏も親父さんを真似したのか、本妻とは別の女性との深い仲を公然と雄太に話して、その美貌を愛でていた。

このような私生活であれば、今では大変な問題となり、追及が容赦なく身に及ぶと思う。お妾さんは今の時代、禁句ではなかろうか。しかし、当時の国会議員の多くが、本妻以外の女性とのお付き合いを育み、面倒を見ていた。世間では、今の社会状況とは異なり、寛大に見守っていたようだ。

太平洋戦争で敗戦国となった日本は、発展途上国だから、経済的に余裕はなかった。特に女性が働く職場は限られており、今日における夫婦共働きが当たり前の風潮とは異なっていた。政界に限れば経済力のある男性が女性の面倒を見ても、必ずしも風当たりが強いわけではなかった。

今では本人が重要人物であれば、政権の根幹を揺るがす事態となるであろう。特に閣僚ともなれば……。時代は変わったものである。

極端な例では、かつて「ヤジ将軍」と揶揄されて自由党と日本民主党の保守合同を実現、自民党の礎を築いた二木吉道という自民党の重鎮は、選挙区の住民の前でこう言って憚らなかった。

面倒を見ている女性の話に及ぶと「私がお妾を囲っているのはこの人が食べていけないから面倒を見ているのであり、何らやましいことではない。困っている女性を救っているのがなぜ悪いのだ」と。実際は一人どころか六人もいた。今のご時勢では大問題となったことだろう。特に妾などという女性蔑視の発言は。