二代目瀬川菊之丞

ある時、宿で火事があり、周りの者が初代菊之丞に早く立ち退くよう勧めたが、菊之丞は化粧部屋に入り、入念に化粧をして静かに立ち退いた。

「たとえ焼け死んでも、見苦しいのは芸道の恥也」と考えていた。

女の美しさに固執し、どうしたら女として美しく見えるか、そればかりを考えていた。美しくないのなら、死んでも良いとの覚悟で、普段の生活も女で通した。こうして全ての女形の役柄を熟知して、瀬川菊之丞という、大名跡になった。

そんな名家の二代目である。生まれながら浜村屋の跡継ぎであり、この世のものとは思われない美しい顔、生まれながらの芸の才能、怖いものなしだった。二代目菊之丞は寛保元年(1741年)に江戸郊外、王子村の豪農、清水半六の子、徳次として生まれ、五歳の時に、江戸堺町の初代瀬川菊之丞の養子となり、瀬川吉次と名乗った。

十歳で父、初代瀬川菊之丞を失うが、女形の叔父、瀬川菊次郎、その妻おまつの薫陶を受け成長した。宝暦六年(1756年)、十一月、市村座の顔見世『帰花金王桜』の劇中『百千鳥娘道成寺』を踊って二代目瀬川菊之丞を襲名した。屋号浜村屋、俳名路考、王子生まれに因んで、“王子路考”と呼ぶ。

菊之丞の養母、おまつの薫陶の仕方は独特だった。

おまつは菊之丞に、

“本当の役者はね、台詞回しがうまいとか、所作が良いとか、そんなもンじゃないンだよ。芸? そんなもんは後からついてくる。そうじゃなくて、お前が舞台に立つと、その舞台が輝きを増す、ご見物はもううっとりとして、天にも上った心持ちになる。そしてこの世のことを忘れる。ご見物の神様になる。それができるのが本当の役者なンだよ”

と言った。

岩井半四郎の娘、おまつは、芝居、役者のことを悉く知っていた。おまつは、菊之丞を膝下におき、江戸の役者としての菊之丞の生活を律した。その養母のおまつが、二代目菊之丞に“うっとり”としていたのである。

襲名以来、二代目菊之丞の人気はうなぎのぼりだった。生粋の江戸育ち、感能的な美しさ、江戸根生いの女形、江戸の町人の自慢だった。

“女が美しいのは京都”と江戸の人々、誰もが思っていたのを覆した。芝居のご見物は菊之丞を見ることが目的であった。だから何を演じても当たった。江戸の人々は朝一番から芝居に押し寄せた。「一世を風靡する」という言葉通りで、人気に従って、給金も高騰した。中村座、市村座、森田座、三座の座元は菊之丞を取り込むことに心を砕いた。

生活も奔放であった。家は三か所に在り、妻に妾が二人、それぞれの家に使用人が十人以上、それに、番頭権兵衛夫婦、床山、衣装など、五十人以上を一人で養っていた。

「なあぁ、若!」

ある時、菊之丞は松七郎に言った。

「駿河町の越後屋の身代は、丁稚までが、それぞれに儲けて出す大身代だろ。俺ンとこは、俺一人の稼ぎで、五十人以上の暮らしだ!」

と言って生活に贅沢を極めた。

「それじゃ兄さん、油見世は私に任せてくれますか?」

松七郎は、喜七が羽左衛門に言った言葉を真似た。

「任すよ。ただし一番にするンだぞ!」