客という教師
「これは亀蔵小紋と申しまして」
見世の前で二人は話した。
多くの町人が二人の回りを歩いていった。
晴れ晴れとした村上清左衛門は、
「渦巻紋じゃな」
手拭を見ながら言った。
「左様で。当代の市村羽左衛門は初め亀蔵と申しました。その頃、渦巻模様を好んで着たそうで御座います」
「うん。だが、これは売り物ではないのか?」
老武士は不思議そうに聞いた。
「多分これからは、これを売ることがないかもしれませんから」
松七郎は胸を張って答えた。
武士を見送って、帳場に座った松七郎は思った。
(そうか。大雑把にいって、江戸の人の数は百二十万。そのうち、お武家様は半分だから約六十万、その四割近くが参勤交代に関わる。つまり一年ごとに国に帰る訳だ。芝居に興味がある客がその一割としても、二万人、二万個近い江戸の土産が必要だな)
それ以来、羽左衛門の油見世は羽左衛門を売り物にせず、江戸の芝居を売り物にした。また江戸以外の客を大事にした。江戸土産が良く売れた。
仕入れ先も全部大倉屋の店に変えた。客の買いたい物を伝えると、すぐに作り見世に置いた。仕入れ先は若い支配人のやり方を面白がって、
「こんな物を作りました。一度、見世に置いてください」
と言いながら、
「ここに置けば目立つでしょう」
などと自分の見世の如く売り物の配置を考えた。
「自分の売りたい物を売るのではなく、お客様の買いたい物を売る」
羽左衛門の見世に来る客は、
(江戸の芝居に行った印、江戸の芝居を観た証拠、つまり江戸の楽しさ)
を欲しがっていたのである。江戸の芝居を売る見世になった羽左衛門の油見世は、約半年で利が出る見世に生まれ変わった。
松七郎は大倉屋と市村座に認められた。松七郎は甘酸っぱい気持ちで昔のことを思い出した。
「“私しない”」
松七郎はその昔、喜七の言った言葉を思い出した。
「金や物、全てを自分だけのものにしないことだ!」
喜七はそう言った。
(あの言葉は商売にも当て嵌まる)
松七郎は歩き始めた。そして、今番頭をしている見世に向かった。