大学入学試験
池袋の家には叔母が一人留守番をしていた。叔父は当然仕事で会社に出勤、従弟妹たちはそれぞれ学校へ行って不在だった。叔母に受験の結果(不合格)を報告し、どこかに就職しなければならないと告げた。叔母は明るい口調で
「それなら私の弟の店で働かない? 上野で記念メダルやバッジ、カップなどの製作・販売の商売をしているから」
と言った。当時、国立2期校の大学入試の発表は3月の最終週が普通であったので、それから就職口を探すのは容易なことではなかった。家庭の経済的事情で、私は高校卒業後すぐ就職しなければならなかった。外語大を受験するとき両親に
「落ちたら就職する」
と宣言してしまったからである。東京の叔父さんに頼めば就職口もあるだろうなどと、3月の末になっても呑気に構えていたのである。私は、当面叔母の言うメダル店に住み込みで働くことにした。その店は上野駅の近くにある零細企業であった。店の裏手に小さな工場があって、住宅・店舗兼用の建物の一部としてつながっていた。
50代後半と思える通いの職人が一人と、その弟子で25歳ぐらいの住み込みの職工が一人、そして私。従業員はそれだけであった。社長は叔母の実弟、その奥さんも食事のまかないだけでなく、お店の経理などの手伝いをする「兼業主婦」であった。それは東京の下町によくある零細企業の形態であった。
上野時代
(1)住み込み店員
同じ田舎の高校の同窓生たちも東京都内を始め、千葉や横浜といった首都圏のあちこちの小企業に就職していたが、零細企業の工員や店員というのがほとんどで、昭和30~32年当時、田舎の高卒には大会社や大工場の社員・工員という就職口は少なかった。「あゝ上野駅」という流行歌で知られる集団就職華やかなりし時代より5~6年前のことであった。
われわれの時代は「集団」ではなく、個々の縁故頼りの就職であった。
私の仕事は店番と、店番しながらメダルやバッジを包装したり、それを郵便や鉄道小荷物で送る作業、そしてそれら商品を作る段階でのメッキ工場への依頼、メダル・バッジの「彫刻型」を作るための職人への注文など、下町の諸々の職人の家や零細工場への使い走りが主で、最初は自転車で、次第に慣れてきたらスクーターでの搬送などが主な仕事であった。
また注文取りの「御用聞き」や完成品の客先への納品もするようになった。初任給は3食付・住み込みで月額3千円だった。休みは第1と第3日曜日だけだったし、上野や浅草で映画を観たり、食事をしたりしても、毎月千円は貯金ができた。休みの日曜日にはよく映画を観て過ごした。田舎では観られなかったアメリカ映画の新しい西部劇や、古い名画をよく観に行った。