工員時代

上野時代はまだまだ続きがあるのだが、その前に上野のメダル店をいったん辞職して工員になったことを記述しておく。

およそ1年半の上野での住み込み生活のあと、私は自分の時間が取れる職業に転職した。きっかけは、高校で同じ陸上部の1年下の後輩が自衛隊員となり、千葉県の船橋で下宿していたが、部屋をシェアしないかと言ってきたことだ。月3000円の下宿代を折半して一緒に住みたいと言うのだ。

彼の誘いに応諾して船橋に住むことにした。ところがその後輩は1か月後に陸上自衛隊習志野駐屯地の近くに移り住み、私もそれに従ったが、2か月とたたないうちに彼は勤務先の自衛隊の辞令で同じ県内の館山のほうへ転勤になってしまった。

独りになった私は、2食付きで月5000~5500円ぐらいだったか(?)で住める下宿を習志野駐屯地近くの薬園台に見つけて転居した。そこは習志野原の一角で、冬は窓を開けると麦畑が一面に広がっていて、寒々とした風が、時に畑の土を舞い上がらせていた。

臨時工員として就職した先は船橋近辺では比較的大きなニッケル工場であった。労働組合もあり、雇用保険や厚生年金にも加入できる大会社の工場である。

労働は3交代制で、朝8時出勤時は16時に終業し、第2勤務員と交代し、第2勤務は夜中の12時まで、第3勤務は夜中の12時から朝の8時まで、というシステムであったが、第2勤務は電力事情の関係から人員を絞り、かつ第2勤務の人たちは真夜中に1時間の休憩のあと、朝まで継続勤務することが多かった。

私は第2勤務と第3勤務を連続で働くことはめったにしなかった。第2勤務の時は夜中に帰宅、第3勤務の時は夜中に出勤、そのため夜11時ごろ下宿を出て駅に向かうことは珍しくなかった。給料は、多少の夜勤手当を含めても、月1万円に届かなかった。

夏の終わりごろのある日、第1勤務で16時に仕事が終わり帰路につき最寄りの駅まで帰ってきたとき、雨が降り出していた。駅から下宿までは徒歩数分だが、頭に手を当てながら駅舎から道路に飛び出したとき、「入りませんか」と傘を差し出された。見るとどこかの女子高校生だった。「いやすぐそこだから」と言いながらも私はその好意を受け入れた。

どこの高校ですかと聞くと、佐倉だと言う。「佐倉まで通学とは、遠いですね」「佐倉に住んでいたのだけれど、父の転勤でこちらに引っ越したものですから。1年間なので転校しないでここから通うことにしたの」、と雨で肩の辺りを半分ぬらしながら短い会話を交わした。

それだけのことであった。社交下手な私はその機会をつかんでその後その女子高生と付き合うというような機転は利かないのであった。

初めて上京し上野で住み込み店員となった頃、高校生男女が二人連れで歩いている姿を見たとき、何やら「()ける」ような感情に襲われた。田舎育ちで、女子生徒と付き合いのなかった純情・ウブな自分が、突然の見知らぬ女子に相合傘を勧められて、恋人気分になれるはずはなかった。ただ「胸キュン」ではないが、そこはかとなく温かい気分に包まれて、あっという間の短い「寄り添い傘」の時間であった。

「さよなら、ありがとう」、下宿屋の前でそれだけ言って別れた。