出向先は出身地に近いO県を選んだ。車の免許を持っていない私は自転車で顧客開拓に励んだ。自転車で車の販売とはと珍しがられながら商談迄進めば大抵は成約にこぎつけた。又成果は訪問数に比例すると考えた私は、先輩たちの冷笑を尻目に中心部の商店街を徒歩でしらみつぶしに飛び込んだ。これも効果があり一年目の終わりには先輩に伍して成果を上げた。
二年目には東地区にある本店とはかなり離れた西地区の自動車修理販売店に飛び込み、周囲の環境も調べたうえで、当社の営業所としての可能性を探ると共に社長に上申した。
当時、中堅メーカーの傘下にあるディーラーには、新規投資をする資金力もなく安価でリスクの少ないこの案件は面白いととんとん拍子に話は進み新営業所が開設できた。長年県下二拠点体制に新拠点が加わり従業員の士気も上がった。
営業所は町はずれにあったが成果は想像以上だった。私は営業所開設と同時に所長になった。
当時、年度末の三月は年間需要の約三割を占め、各社躍起のまさに戦場であったがメーカーから城山三郎氏の著書にO大尉として登場するO本部長が、視察と激励に見えると言うことで楽しみだった。
本部長はスーツの内ポケットから愛用のダイヤモンド付きボールペンを取り出し私に渡してくれた。今も大事に愛用している。本部長愛弟子の社長も俺さえも貰ったことが無いと羨ましそうに言ったのを覚えている。
昭和五四年にはK営業所に転勤。当社においては売り上げの約四割を占める大所帯だった。当時の自動車業界は、一〇年後の世界一の生産台数一九九〇年一三八四万六〇〇〇台に向けまっしぐら、国内の販売戦線も苛烈な労働環境が続いた。セールスの採用は中途採用のみ。大卒には見向きもされなかった。定着率は保険セールス並み。限られた原資の中、成果を上げるには基本給を抑えて奨励給を厚くせざるを得ず、販売部門の残業は軽く一〇〇時間を超える有様だった。サービス残業である。
表は華々しくとも内情は厳しく管理者がほぼ強制的、喧嘩腰でセールスに接するよりほかはなかった。