私は新営業所の開設のための下調べをしている最中に、中学校教諭の時子(仮名)と夏の暑い盛りに見合いし一二月二四日には結婚式を挙げた。
私はそのころ男女関係は一目見た瞬間に決まると思っていた。時子は水色のワンピースを着て清楚で知的、腰を折って笑い転げる屈託のない彼女を見て一目惚れだった。
彼女は九歳年下だった。家庭生活の五〇年代は五二年長女奈津子、翌々年には良子誕生、五六年長男泰男誕生と平穏な生活が続く。
妻は中学校から小学校に変わりむしろ仕事が増えているようだったが、私は朝八時出勤夜九時帰宅。日曜日・祭日も出勤、家庭サービスは年末年始、ゴールデンウィーク、盆休みのみとハードスケジュールで家庭を顧みる余裕はなかった。このような生活は結婚以来二〇年以上続いた。
妻は子育て、家事、仕事、特に教師の仕事は男子教諭と同じ責任が求められる。私は食事の配膳、子供の食事、食器洗いすらほとんど覚えがない。この稿を書きながら改めて妻に申し訳なく思う。一人二役三役もこなしていることに私は全く無頓着だった。
夫婦間の営みは世間並みにあったが、当時の私には、この会社での成功以外選択肢は無いという思いが強く、退路を断たれた精神的プレッシャーと長時間勤務で、妻との対話もほとんどなく彼女への配慮が足り無かった。しかし彼女は家事を完ぺきにこなし、家の中に花が絶えることなく安心しきっていた。
私は彼女を妻に選んだことに誇りを感じていた。母もいつも妻に感謝しなさいと折に触れて話したものだった。