【前回の記事を読む】生涯で一番嬉しかったことが「模試の順位」であったワケ
仕事と家庭――寝耳に水
一方当時の自動車業界は正にモータリゼーションの黎明期であった。
自動車の貿易の自由化は一九六五年の乗用車の輸入自由化によりほぼ完了していた。しかし欧米メーカーに比べ弱小であった日本のメーカーは、さらなる難問、資本の自由化を控え、企業体質の強化に躍起で企業間競争は、益々激化、猛烈時代を迎える。
そのような中、一九七三年オイルメジャー作為のオイルショックに端を発した物不足現象により消費者マインドは内向きになった。車への購買意欲は低下し車が売れなくなった。そのためメーカーはディーラー販売力増強を図るべく大卒の販売経験のない若手を出向させることにした。
その時私は製造本部資材部管理課に所属していた。物不足対応の常務会が開かれることとなり、私に常務会の資料作りが命ぜられた。
そのようなことから私に目をかけてくれるようになったY製造本部長は、私の出向に際し役員室に私を呼び「君を見ていると、君は上の人によって輝きが違う。今度は営業するのだから、帰ってくるときは上の人など掌に乗せる位の気持ちになって帰ってきなさい」と言われ感激した。
しかし私は、入社以来ほとんどの期間を管理部門に所属していたが適性とは思えなかった。当時の私のレベルでは、母の言う「可愛いのは仕事」の教訓も「成果が見えない管理部門は不向き」などという単純な発想で、管理部門の仕事の何たるかを弁えていなかった。
加えて当時の東京は住宅事情も厳しく空はスモッグで昼間から暗く、地方の工場に出張すると気持ちが晴れ晴れした。適性は現場にあると単純に確信していた私に帰るつもりはなかった。