「帰国は急に決まった。国元で大火があった」

白髪の髷を綺麗に結った侍は、俯きながら、「わしはもう二度と江戸には下らないであろう。それ故、婆さんに江戸を見せてやりたいと思ってナ。やあ、江戸には何でもあるけんと言った手前」

老武士は、美しい目で、松七郎の目を見た。

「それは、それは申し訳御座いません。どのような物であれば宜しゅう御座いましょう?」

少し目を輝かせた老武士は、「婆さんや倅夫婦に、ここが堺町、ここが葺屋町、ここが茶屋、とナ、そして江戸のしばやの前には芸者がいて、見物を呼び込んでいる。小屋の中、紋の番付、しばやの舞台の絵なぞがあれば良いのじゃがのう」と美しい声で訥々と言った。

「なるほど。江戸の役者ではなく、江戸のしばやがわかる物で御座いますな?」松七郎は、なるほどと思いながら、答えた。

「左様。役者ではない、江戸のしばやがわかる物。それが欲しい!」侍の灰色の目が松七郎を見た。

「なるほど、分かりました。何とか取り揃えます」松七郎は答えた。

「しかし時間がない!」武士はとっさに答えた。

「お武家様はどちらの御家中でござりまする?」

「芸州浅野家じゃ」

「それでは、桜田のお屋敷にお届け致しますれば、いかがで御座いまする?」

松七郎は、侍の目を見て尋ねた。侍は首を振った。

「時間がない。国へ飛脚で送ってくれまいか。いかがじゃ?」

「畏まりました」

侍は安堵した体で、「いかほどじゃ?」

武士は松七郎の目を見て嬉しそうに聞いた。

「金は要りません!」

「何? 要らぬとナ」

白髪の侍は、灰色の目で、じっと松七郎を見つめた。

「私どもの落ち度で御座います」

「そこもとの落ち度?」

「お見え頂いたのに悲しい思いをさせてしまいました」

松七郎は小さな声で言った。

「それでは、飛脚でお送り致します」

松七郎は、今度は大きな声で答えた。

「そうか、飛脚で送ることができるのか! そうか、それなら、その紙をくださらんか。そう筆と」

帳場を見ながら言った。

「はい」

侍は、「これがわしの在所だ。名は村上清左衛門誠。これで良いな。ここに一分ある。これで賄ってくださらんか」と金を懐から出して言った。

「畏まりました。ご希望の物きっとお届け申し上げます。手前は、ここの主人大倉屋松七郎と申します。一分はお返し致します」

侍は松七郎をじっと見て、「お若いご主人じゃな。そうか金は要らんか? しかし、何故じゃ?」

侍は首を傾げた。

「金より大事なものを見つけました故!」

松七郎はにこやかに答えた。

「何を言っているのか分からんが、ここに来た甲斐があった。それじゃ頼みましたよ!」

侍は腰の物を整え、会釈した。

「必ず満足頂ける物をお届け致します。何卒道中お気を付けて。これはほんのお礼で御座います!」

と松七郎は亀蔵小紋の手拭を差し出した。松七郎は、老武士を見世の前まで送った。

「手拭か。汗を拭くには良いな。有難い」

老武士は嬉しそうな顔をした。

【前回の記事を読む】“私しない”ことが一番大事...?僕がここで働くのは、“町”のため...!?