客という教師
明和元年、夏、四月、暑い日だった。
「御免!」
眼鏡を掛けた身なりの良い、白髪の老武士が見世を覗いた。
「いらっしゃいませ」
松七郎は、お辞儀をして武士を迎えた。
「少々、尋ねるが、“江戸のしばやの土産”はないか?」
老武士は汗を拭き拭き聞いた。
「“江戸のしばやの土産”で御座いますか?」
松七郎は首を捻って答えた。
「左様。江戸のしばやの土産じゃ」
鼠の縞の上着、黒の羽織を着た老武士は、大きく頷いた。
「ここに並んでいるのは皆、江戸のしばやに関する物で御座いますが」
見世の中をしげしげと見て、老武士は弱々しく首を振って、
「そうか、良く見せてもらったが、ないか。江戸には何でもあると聞いていたが」
白髪で横顔の整った侍である。
「お武家様。どのような物が御入用で御座いましょう?」
松七郎は興味深げに聞いた。
「あのナ、江戸のしばやが分かる物だ。うーん、そうか。実は」
何か言いたそうであった。
「お武家様。こちらで、お話をお聞かせ頂けませんでしょうか?」
松七郎は帳場の横へ誘った。
「お茶でも?」
「すまないな」
悲しそうな顔をした老武士は、「実は、明後日国に帰る。そこで急いで、国の婆さんや倅に、江戸のしばやはこのような物じゃと見せてやりたくてな。他の見世では、役者の物しかない。しかし、遠くわが国では團十郎、幸四郎、菊之丞なぞ、誰も知らぬわ。宮島の芝居しかないからナ。だからな、そんな江戸の役者の物は喜ばれない。そうではなくてナ、江戸のしばやはこんな物と見せてやりたいのじゃ」と武士は言って、ゆっくりと茶を飲んだ。
「茶、もう一杯いかがです?」
松七郎は聞いた。
老武士は、歩き回って喉が渇いているようだった。
「うん」
松七郎は、素早く茶を入れ、武士の前に置いた。松七郎は何故か、この上品な老武士に話を聞きたかった。