二丁目
羽左衛門の油見世の殿様商売を見かねて、大倉屋は松七郎を見世の支配人に送り込んだ。月に十両近い損を出していた収支を改善するためである。松七郎が支配人になってすぐ、
「お前をあの見世の支配人にした訳はナ、二丁町のためだ」
喜七は京橋弓町の大倉屋の本家の二階の奥の座敷で、松七郎に静かに言った。
「町のためで御座いますか?」
松七郎は何故か、分からず、喜七に聞いた。
「ああ、そうさ。二丁町のためだ!」
堺町には中村座、葺屋町には市村座があり、この芝居町を江戸の人々は二丁町といった。
「はい」
松七郎は思わず、体を固くした。
「芝居町はナ、しばやが当たらなければ、町全体が沈んでしまう。小屋も茶屋も仕出し屋も、役者も全てだ!」
喜七は松七郎の目を見て、
「お前があそこで働くのは町のためだ。お前は中村座の年間の商いの額を知っているか?」
「いえ」
松七郎は首を左右に振った。
「年、約八千両、そのうち、利は千両」
喜七は断定した。
「座元と役者や衣装などを、その千両で賄うので御座いますか?」
松七郎は興味深げに聞いた。
「いや、それらは七千両のうちに入っている。千両は入銀した金主に配当される」
「左様で」
「市村座と合わせて、一万五千両がしばやの売り上げだ。だがな、大事なのはその後だ。二丁町には、大茶屋が市村座だけでも十軒、小茶屋が十五軒だ。中村座を合わせれば五、六十軒近くの茶屋がある、その売り上げは小屋、茶屋、その他を合わせ、二万両以上あるはずだ」
茶屋の大小は格式を意味した。
「はい」
喜七の長い顔が厳しくなった、
「そこで働く者は役者を入れて、市村座が三百三十人、中村座が三百五十人」
「大変なもので御座いますネ!」
松七郎は初めて聞いた。
「茶屋で働く者は、全部で、千人を超す」
大倉屋喜七は目を瞑ったまま言った。茶屋は芝居小屋に付属した商売であった。大きな茶屋の主人は、座の帳元、奥役などを兼ね、興行にも関与した。大茶屋は表茶屋といい、芝居町の表通りに面して店を構え、裏茶屋は楽屋新道に面し、人目に立つことを嫌う人々のためにあった。
「また、傍の料理屋、土産物屋などを入れれば、町で働く者は、全部で二千人は下るまい」
喜七は沈んだ声で言った。
「二千人!」
「それだけの人の生活がかかっている。しばやにはナ。それを羽左衛門は」
と、喜七は苦虫を噛み潰したような顔をして言った。
「いけませんか?」
松七郎は聞いた。
「分かっていない!」
「どのように」
「中村勘三郎を見習わなくてはいけない」
大倉屋喜七は厳として言った。当時、中村座では六代目も七代目も、役者より座の差配を主としたが、市村座では八代目、九代目とも、役者を主としたのである。それが喜七には気に入らなかった。
「しかし、羽左衛門様は、商売は帳元が全てを取り仕切っている、と仰っておりますが」
喜七は松七郎を睨み付けて、
「油見世を自分のものにしている。羽左衛門が役者に専念するなら、それで結構。それなら、見世に口を出さないことだ。皆の生活がかかっているのに、自分の我儘を押し通す。損をする見世があるにもかかわらず、金は人から借りる。駄目だな。自分のことしか頭にない。それが、私が金を出すのを断った理由だ」
松七郎は、自分が怒られているように感じた。