「“私しない”ことが一番大事なのだ」
喜七はゆっくりと言った。
「わ・た・く・し・しないで御座いますか?」
松七郎は初めて、その言葉を聞いた。
「そうだ。金でも物でも、自分だけにしか使わないのが一番賤しい」
喜七は怖い顔で松七郎を睨んだ。
「はい」
「お前もこれから、“私しない”ことだ!」
喜七は静かに茶を飲んで、
「それにな、市村座はな、先代から引き継いだ借金が十万両近くある」
喜七はため息をついた。
「十万両!」
松七郎は目を剥いた。
こうして、松七郎は生まれて初めて、見世の差配を任せられることになった。元々世間知らず、奥手で、引っ込み思案の若者である。十五歳の松七郎は見世番をしながら、何故並べてある物が、売れないかを考えた。並べてある物の質は良いと、皆が言う。さすが羽左衛門の名である。しかし見世に入ってきた客は、売り物を一通り見回して、皆出ていった。羽左衛門が売りたいと思って見世に置いた物は、客が買いたい物でなかったことだけはわかった。
しかし、松七郎は、何とか結果を出さなければならなかった。
(どうするか。何を置けば良いのか。客の買いたい物は何か? 自分で調べ考えろ。それでも分からなければ人に聞け! )
いままで一人で細々と生きてきた、やり方だった。
(人に聞く? )
何故売れないのか、そんなことは人に聞けない。
(どうする? そうだ、客に聞く、それ、しかない! )
市村座ほどの名が通っていれば、人は、一度は、その油見世を覗く。いつも、見世に人は来たが、見世の客にはならなかった。ちらっと置いてある物を見て、首を振りながら、出ていってしまう。
「何をお求めで?」
と松七郎が聞くと、
「いや、いいや」
と客は、手を振りながら出ていってしまう。松七郎は、客が、何故買わないのか分からなかった。ふらりと入ってくる人は、ただ見るだけである。
(人が買いたい物とは何か? )
松七郎は健三に、目くばせして出ていった人の跡を付けさせ、出ていった理由を聞いた。
「何か良い物があったら、買おうと思ってさ」
で、いつも終わりだった。