若いころこんなことがありました。仕事上たいへんお世話になっているお得意先の研修会という名の海外旅行に参加したことがありました。アメリカの流通小売業の視察ということで、シアトル、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シカゴのスーパーマーケットやデパートを見て回ったのです。
確かサンフランシスコで一泊した夜のことではなかったでしょうか。参加者総勢で一流レストランで食事をしようということになりました。ところが旅行会社のツアーガイド兼通訳が、直前になって急用が入って一緒に行けないと言い出したのです。
「レストランは予約してあります。タクシーも人数分手配しました。タクシーが来たら運転手に店の住所を書いたメモを見せてください。五分ほどで着きますよ」とガイドが言うではありませんか。
参加者の中で一番若かったのは、この私。「お前、学校出たばかりだし、英語少しぐらいなら話せるだろう」と、お得意先の商品部長が言います。
「そうだ、そうだ。せっかく予約したレストランをキャンセルする手はない」と、みんなが無責任なことを言い出して、たちまちのうちに意見が一致。私が旅行会社のツアーガイド兼通訳代理ということになってしまったのです。
本職のツアーガイドが言ったように、タクシーは間違いなく私らを予約したレストランの玄関先まで送ってくれたのでした。
「げっ、この店構えはどうだ。おい、犬田、俺ネクタイしていないけど入れるかなぁ~」などと言っていたくせして、店に入ってテーブルについたら、そんなことを言っていた張本人が、「お姉ちゃん、とりあえずビール!」などと言い出すではありませんか。
「やめてください。恥ずかしいですよ。ここはカクテルとか注文しなきゃ。な、そうだろ、犬田」
「えっ、カクテル? 俺カクテルなんて知らないぞ。どうしよう」
「そんならマティーニにしておこう。ステアではなくシェイクで」
などと自分がスパイ映画の主人公になったと勘違いする者も出る始末で、テーブルはたちまちのうちに喧騒に包まれたのでした。