1章 まやかしの織姫と彦星
奏空たちが解散する少し前では。少年は英単語帳をパタンと閉じて、机の脇に置いた。
「遅いな、先生」
放課後の補習を終えるも、二宮玲人は下校せず教室に一人残り続けていた。入学時は部活動への入部が校則で義務づけられている手前、先日まで活動していた新聞部を辞めて以降は放課後、もしくは補習後の即下校を習慣にしていたが、今日は違う。新聞部の顧問、上野帆南から残るようにと伝えられていたからだ。
窓際の席で頬杖をついた玲人は、青みが残る空を眺める。盆地の街中にあるこの高校。意識を遠くに移せば、山々が壁のように連なっている。新緑の色が占める山の中腹には、たしか集落と綺麗な湖があった。気温が高まるこれからの季節、そこはよい避暑地になるのだ。
窓を鏡代わりに髪を直す玲人。閑散とした教室に、運動部の賑わいと吹奏楽部が奏でる幾重もの楽器音が、どこか寂しげに響き渡る。
「お待たせ、玲人」
そのとき、女教師が玲人一人の世界を破った。受け持つ教科は化学ゆえ、薬品の処理後だろうか、白衣を羽織っている。背中にかかる黒い髪が色映えしていた。年齢は三〇手前だが、顔立ちは大学生のように若やかで、くりっとした目の形は愛嬌がある。彼女は玲人の前の空き椅子に、一冊の雑誌を机に置いてから腰掛けた。
「先生、できれば時間は守ってほしいです。それで、僕に話ですか? 新聞部は退部しましたけど。部活絡みの話だったら帰らせてもらいます」
「まあまあ、そんな冷たい対応をしなくても。そういえばさ、玲人」
他人事のような淡々とした態度の玲人に、教師の上野はニヤリと口角を上げて、「今日の昼休み、五組の倉科とキスしたんだって?」
ビクリと髪を揺らした玲人は、わざとらしい咳払いをした。
「せ、先生には関係ありませんっ。あれはただの事故です! というか、もう知られているんですか……?」
「大声で言い合ってれば、そりゃあすぐに広まるでしょ。で、どう倉科は? 明るくてかわいいし」
「どう……って。僕の好みは……えっと、おしとやかな人ですから。ああいう女子はルックスがよくても合いません。もうこの話は終わりにしてください、お願いします」
朝礼での連絡のような事務的な口ぶりで玲人は返した。