思い残す事
今の状態では無理ですが、できることなら旅に出たい。若いころからの夢・憧れだったギリシャ、懐かしいイギリスは無理だとしても、日本にもまだ行っていない所があるし、一度行っていても再度行きたい所は「奈良」、万葉集が生まれ育った地、聖徳太子が黒駒で疾走した道、法隆寺の佇まいをもう一度この目で確かめたいのです。あの世へ行く前に、できるうちにしておきたいことです。
自分の足で、どこにでも出かけられるのなら、こんなに「旅」に憧れることもなかったと思います。訪れたい国の映像ならYouTubeなどで、いくらでも見ることができますが、旅先の土地の香り、空気の色、風や空の色、咲いている花たち、鳥のさえずり、季節の香りなどは味わえません。極彩色のフィルムの画像の中には、俳句の季語に選びたいようなものが見つからないのです。
「季語」って、諸説ありますが、ある風景の中の自分の存在が感じ取った光のような何かを具体的な物ですくい捕るための記号だと思っています。「物の見えたる光まだ消えぬうちに言い止むべし」と芭蕉先生は言っています。「季語」が私たちに示してくれていることは、我々日本人の祖先たちが、長い時間をかけて培ってきた想い・心・願い・祈りの結晶ではないでしょうか?
「『俳句』を作るために旅にでるの?」と問われれば、「よい俳句ができれば、その旅と俳句は一体」と言ってもいいとさえ思っています。旅に出て俳句のお土産を沢山持って帰ることができれば、その旅はよい旅でしたと言えます。また思い残すことはなくなるはずです。俳句の中には旅が詰まっているのですから。季語に出会うために、旅に出るのかもしれません。
「両親の墓参り」は元気なときにしておきたかった。春には山一杯に桜が咲き、秋には辺り一面に風に揺れるコスモスの花一杯の高尾山の麓にある墓地には、父方の両親、父の妻(私の母)、父の再婚の妻、父が眠っています。お彼岸になると「今年こそ」と思いつつ、目の前にある野暮用で行けなくなってしまっていました。でも毎朝、両親の写真の前で「今日も、お守りください」と手を合わせていましたので心は通じています。
もう生きているうちに高尾まで行くことはできません。これも「思い残す事」です。