【前回の記事を読む】エゴむき出しの現下にて「紛争の無い世界」など絵空事…それでも僕は
戦後
戦時中は出征兵士の家と言われ周囲からそれなりの気配りをされていたように感じていたが、男手のない家は地域でも軽んじられる有様となった。それでもミヤコは持ち前の負けん気と明るさで、人前では笑顔を絶やさず気丈に振舞った。しかし女の細腕ではいかんともし難く、家での笑い声も絶えて久しく暗い毎日が続き将来への光明は全く見え無かった。
そのような中N洋装店の当主の妻が是非息子の嫁に来て欲しい。子供は粗末にしないと再三に渡りあばら家に訪ねて来たが、住み込み当時のその息子を思いその気になれなかった。又好高に面差しの似た好高の甥にもお兄さんの写真を全部捨てて自分の所に飛び込んできてほしいと懇願されたがこれも断った。彼は中学校の先生だった。
ミヤコは好高出征の時の必死の眼差しやお位牌だけの遺骨箱を思い、モシヤと僅かの希望を捨てられなかった。母は自分の腕一本が頼りの戦時中、懸命な努力で手間賃の高い紳士服の仕立ても立派にできるようになったが、顧客は役場職員か教職員に限られ、それらも男子の仕立て屋が独占し、生活は戦前と同じその日暮らしであった。
町内で遺族家庭は八軒、ほとんどが独身の二男三男の戦死である。周りの家の殆どは、農地解放によって小作から自営農となり、折からの食料不足を追い風に、大黒柱の存在も頼もしく生活は目に見えて改善する一方我が家の貧窮ぶりが際立ってきた。
世間の生活が安定し始めたころ、深夜家の近くの農道に暗闇の中に立つ男を見かけることが度々あり、妹は実家に帰りたがった。
母もなんとも不気味に感じた。男手のいない生活のし辛さを身にしみて感じていた母は、好高の叔母で和裁弟子持ちのタカの紹介で恒雄と生活を始めた。恒雄はタカが七、八名いた弟子の中で右腕と信頼していたT子の義兄だった。恒雄は長男でありながら大阪の大手ふとん店に就職し店主の娘と結婚、長男をもうけていたが博打と女遊びを理由に離縁され実家に戻っていた。
母は叔母の推薦を信じ恒雄の過去を問い質さず同居したが、女遊びも博打も治まらず還暦を過ぎるまでほとんど家にいなかった。他人の悪口を言わない母が、問題が起きるたびに「Tが私に厄介払いをした」「好高が帰っていればこんな苦労はなかったのに」とよく嘆いていた。
私も恒雄と家で食事をした覚えはほとんど無い。母の妹が実家に帰った頃から仕事が軌道に乗ったのであろう。