小学生の私は母から炊事軍曹とおだてられ炊事当番(と云ってもおくどで火を燃やし麦七分米三分のご飯を洗い、炊きあげるだけだったが子供には大変だった)をする傍ら、母は朝七時頃から正月の三が日を除き六五才頃迄、夜八時九時頃迄働き詰めの毎日だった。

戦後一〇年頃には、O政治家の兄で町長のKさんや収入役のT氏など町の幹部も好高の中国従軍や激戦地ニューギニアでの戦死を知り、スーツの仕立てに来るようになった。その町長は激戦地のラバウルで太ももに被弾し九死に一生を得て帰還。町長の太腿は驚くほどにえぐられていた。戦争の恐ろしさを実感した。

収入役のT氏も中国大陸で長きにわたり戦った経験を持っていた。戦争の悲惨さを知る町長や収入役には、好高の戦死により貧窮する我家の状況を見て懇切なアドバイスを戴いたと後年母が私に話した事があった。

私が小学生になると母は参観日にはいくら忙しくても必ず顔を出した。その時男の子が私の母が来ると騒ぐことが恥ずかしくもあり、誇らしくも感じたものだった。

母は好高の戦死以降自らの幸せは求めず、ひたすら私のために人生を送った。そして今となって考えてみると勉学では得られ無い私が生きていく上でのベースになる考え方を、折に触れ耳にタコが出来るほどに言い続けてくれた。それぞれはありふれた言葉であるが、母に教わらなければ生涯気が付か無かったであろう言葉もある。

私にとっては母が和洋裁の仕立て業を営み、いつも家にいてくれたことも幸せだった。